2013年5月29日水曜日

その21 「目には見えない教会?」 マタイ13章

前回はヨナ書から、このように教えられました。「ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのならば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。自分には直接関係のない海外の人々の救いのためにも、祈れるクリスチャンになりたいと思います。」今日は、世界大の教会(不可視的教会)と、各地に点在する地域教会(可視的教会)についてお話ししたいと思います。

いまさらながら教会って何でしょう?ある人々はこう言います。「聖書には『ふたりでも三人でも、わたし(イエス様)の名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)』と書いてある。だから、どこでもクリスチャンが、二人以上集まるなら、そこが『教会』なんだ」。そして実際にスモールグループそのものが教会だと主張し、思い思いの「教会」生活を送っているのです。そのような状態を「教会観がない」と言います。実は、そのような混乱は今に始まったことではありません。宗教改革が起こった時、ルター率いるプロテスタント教会は、カトリック教会という大きな傘(制度、組織)のもとを出ました。そして制度と儀式でガンジガラメになった教会を改革し「神の言葉があるところに信仰があり、信仰があるところに神の教会がある」と、「信仰」と「神の言葉」を土台とする本来の教会の姿を回復したのです。しかし、それを極端に解釈する人々が現れました。「急進派(ルターいわく熱狂主義者)」と呼ばれる人々は、御言葉さえ語られていれば「それが教会だ」と主張し、思い思いに教会を作り、絶え間ない分裂と対立という混乱を招いてしまったのです。それはルターが本来意図したことではありませんでした。

そこにジャン・カルバンがあらわれ、もう一度、教会というものを次のように定義しました。「教会とは①神の言葉が説教されているところであり、②サクラメント(洗礼式と聖餐式という聖礼典)が正しく施行(しこう)されているところです」。この定義には、それを支える「教会の制度(教会政治)」の理解も含まれています。教会は、制度や組織ではありませんが、秩序は存在します。パウロもこう書いています。「ただ、全てのことを適切に、秩序をもって行いなさい。(Ⅰコリント14:40)」つまりカルバンは、無秩序な教会形成をするのではなくプロセス(秩序)を大事にしなさいといっているのです。少しややこしいですが、私たちの教会で言うとこういうことです。地域教会の「会衆」によって「教会役員」が選ばれます。その教会役員の代表が「教団総会」に出席し、その教団総会において「教団役員会」が選ばれます。地域教会の牧師は①「牧師本人」の召しを尊重し②「教会役員会」によって招聘され③「教団役員会」が任職します。これを「三者合議」といいます。このようにして立てられた牧師を通して「聖礼典」と「御言葉の説教」がなされるのです。先にも言ったように「ややこしい」です。しかしこのようなプロセスを経て「権力の偏り」や「教理的誤り」、「教会のカルト化」を防ぎ、健全な「地域教会」を建て上げているのです。

それとは別に、不可視的教会という概念があります。不可視的とは、目には見えない、という意味です。つまり「現在、過去、未来、すべての聖徒からなる、完全にして、霊的な教会のこと」です。「公同(こうどう)の教会」ともいいます。使徒信条の中で「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会」といいますが、そのことです。この公同の教会は、キリストの再臨の時に完成します。エペソ人への手紙に「(イエス様が終わりの日に)しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(5:27)」とある通りです。しかし地上の教会は、完全ではありません。完璧な制度(教会政治)もありません。上記のように、完全である努力はしていますが、多くの問題もあります。イエス様の「毒麦のたとえ話(マタイ13章)」はそのことを言っています。時には本当に救われているのか、首をかしげたくなることもあるのかもしれません。でもイエス様はこう言われます。「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。(30)」毒麦を抜くことは私たちの仕事ではありません。私たちの目の方が曇っていて、その人は、本当は正しいことを言っているのかもしれません。また悪意があったとしても、神様はその人の悪意さえも用いて、ご自分の目的を達成することができるお方です(箴言16:4)。毒麦は御使いに任せましょう(41)。私たちの仕事は、時が良くても悪くても、福音の種を撒き、愛する兄弟姉妹とともに、この地上にキリストのからだなる教会を建て上げていくことなのです。

公同の教会の一員として、天の完全な交わりを夢見ながら、地上の教会に仕えて行きましょう。



だが、主人は言った。
「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、
 麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 
 だから、収穫まで、
 両方とも育つままにしておきなさい。」
マタイ13章29-30節(要約)

キリストが教会を愛し、
ご自身をささげられたのは、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、
ご自分の前に立たせるためです。
エペソ5章25-27節(要約)




2013年5月23日木曜日

その20 「世界に出ていく教会」 ヨナ1-4章

前回は「地の塩としての教会」と題し、このように学びました。「クリスチャンと教会に対する、神様の約束の土台となっているのが、アブラハム契約です(創世記12:1-3)。…そして私たちはイエス様の十字架によって、この契約の相続人とされているのです(ガラテヤ3:14,29)。すなわち①もし私たちが偶像礼拝と古い生き方を離れ、天の都を目指し、キリストに従って新しい人生を始めるなら。②主は私たちを大いなる共同体(教会)の一員とし、祝福してくださる。③その祝福は教会を通して、全世界にもおよぶ。」そこで今日は「世界に出て行く教会」と題して学びます。

意外かもしれませんが、旧約聖書のヨナ書から「世界宣教」について教えられたいと思います。ヨナはある時、神様からこの命じられます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ(2)。」つまり神のさばきを宣告し、悔い改めを呼び掛けよ、というわけです。しかし彼はその命令に激しく抵抗します。「ヨナは、主の御顔を避けてタルシュシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った(3)。」タルシュシュとはイザヤ書に「わたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない(66:19)」と言われている、いわば「地の果て」です。そこまで逃げて行きたいほど、ヨナにとってニネベ行きは考えられないことだったのです。なぜでしょう?それはニネベがアッシリヤという国の首都であったからです。アッシリヤは常にイスラエルを脅かし、後に北イスラエル王国を滅ぼすことになる、言わば「敵国」です。そんな国のため働きたくないというのは、ある意味当然の反応なのかもしれません。しかし彼はその結果、魚に飲み込まれ、三日三晩ただよい、苦しみもだえながら悔い改めへと導かれるのでした(2章)。そしてニネベに行って、主のことばを宣べ伝えました(3章)。

その結果、ニネベの町は悔い改め、救われました。ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせました。彼は怒ってこう祈りました。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから(4:3)。」そして諦められず、なおも、今か今かと「さばき」を待ち続けていたのです(5)。神様はそんなヨナの頭上にトウゴマ生えさせ、その葉によって日陰を与えられました。しかし喜びも束の間、翌日の夜明け前に、その葉は虫に食われて枯れてしまったのです。そこで彼はまたもやこう言います。「生きているより死んだ方がましだ(8)」。主はこの一連の出来事を通して、彼に「一方的な主の恵み」を教えようとされているのです。主はこう仰せられました。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか(10-11)。」つまりヨナは自分も主に背き、一方的な恵みによって、赦され、生かされた者として、どうして同じように他の罪人が赦され、生かされることを喜べないのか」と問われているのです。

主は私たちにも「ニネベに行きなさい」と命じています。それは右も左もわきまえず、神に背いて生きている人々のことかもしれません。神様は私たちクリスチャンと同じくらい、未信者の事も愛しておられます。「自分たちだけの神様」だと思ってはなりません。神様は全ての人の主です!またあなたにとってのニネベは、文字通りの外国かもしれません。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)。」これはお勧めではなく、大宣教「命令」です。あなたは言うかもしれません。「いいえ、行きたくありません。大宣教命令は私個人ではなく『教会』に与えられている命令ではありませんか。」確かにその通りです。でももしそうなら、あなたは祈りによって、経済的にも、教会の海外宣教を支えていますか?またある方は「日本にはクリスチャンが1%もいないのにどうして外国ですか」と思うかもしれません。でも大宣教命令が与えられた時、イスラエルに1%のクリスチャンがいたでしょうか?あなたがこの命令に従わない理由は何でしょう。ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが、自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのであれば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。神様は、彼らのことも愛し、あなたと一緒に彼らにも恵みと祝福を届けたいと願っておられるのです。

あなたのニネベはどこですか? 
無関心を超えて、海外宣教のためにも祈るクリスチャンになろう。


「これで私は、はっきりわかりました。
 神はかたよったことをなさらず、

 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、
 正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
 このイエス・キリストはすべての人の主です。」

使徒10章34-36節(抜粋)





2013年5月15日水曜日

その19 「地の塩としての教会」 創世記12章1-3節

前回は「執事の働き」について学びました。Ⅰテモテには、その執事の基準としてこうありました。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単に実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。加えて、その直前の「監督」の条件にはこうあります。「また、教会外の人々にも、評判の良い人でなければいけません。(Ⅰテモテ3:7)」教会の中で評判が良いだけでは不十分で、この世の中での評判も大事だということです。なぜなら教会とは、当然、この世の中でも存在しているからです。そこで今回は「地の塩としての教会」と題して学びます。

教会は「この世に対する祝福の通り良き管」です。クリスチャンと教会に対する、神様の約束の土台となっているのが、アブラハムに対する契約です。そこには大きく三つのことが記されています(創世記12:1-3)。①「あなたは、あなたの故郷、父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」②「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名は祝福となる」③「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。私たちはイエス様の十字架によって、この契約の相続人とされています(ガラテヤ3:14,29)。すなわち①「もし私たちが偶像礼拝と古い生き方を離れ、天の都を目指し、キリストに従って新しい人生を始めるなら」②「主は私たちを大いなる共同体(教会)の一員とし、祝福してくださる」③「またその祝福は教会を通して、地域にもおよぶ。」まさに、岐阜リバーサイドチャーチのビジョンにある通りです。「いのちの水が、あふれ、流れ、すべての民を、生かし、いやす。」これが神様からの約束です! 

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです(Ⅰペテロ3:9)」。このことを忘れてはいけません。何度も言いますが、私たちは、自分たちだけが幸せになるために救われたのではありません。私たちを通して、周りの人々も、家族だけではなく、地域の人々にも祝福がおよぶために「通り良き管(くだ)」として召されているのです。パリサイ人たちはこの契約を勘違いし、恵みを独占しようとし、良くない意味での選民意識におちいり、異邦人や罪人との接触をことごとく避けました。その結果どうなったでしょうか?「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い(マタイ10:39)」とあるように、彼らはその祝福を失ってしまったのです。何と皮肉なことでしょう…。私たちも同じ間違いを繰り返してはいけません。間違った意味での霊的エリート意識は捨てなさい!むしろ、一方的な恵みを受け、救われた者として、この世の中に出て行って、溢れるばかりに与える者となりたいと思います。その時、この世の中の人々も教会の存在に気付き、その惜しまずに与える姿に、イエス・キリストの十字架の愛を見るのではないでしょうか。 

「あなたがたは、地の塩です(マタイ5:13)」。塩の役割は腐敗防止です。また料理の中に少量加えるだけで、素材の味を引き立てます。クリスチャンもそんな存在です。数の問題ではなく、どんなに少なくても、この世の中に出て行く時、そのクリスチャンの存在が、この世の中に少なくないインパクトを与えるのです。しかし塩が塩だけで固まっていても、その役割は果たされません。聖書にはこうあります。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)」ある方は、次の聖書の言葉を取り上げて反論するかもしれません。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(Ⅰヨハネ2:15)」確かにそうです。私たち一人一人は誘惑に負けやすい。ミイラ取りがミイラになってしまう可能性はあります。だから教会が必要なのです。私たちが、たえず塩気を保つためにも、一人一人がしっかりイエス様の交わりのうちに留まらなくてはいけないのです。 

出て行くことと、留まることは、表裏一体です。どちらが欠けても、塩気は保てません。 



あなたがたは、地の塩です。
もし塩が塩けをなくしたら、
何によって塩けをつけるのでしょう。
もう何の役にも立たず、外に捨てられて、
人々に踏みつけられるだけです。
マタイ5章13節

地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。
創世記12章3節





2013年5月9日木曜日

その18 「執事(役員)の働き」 使徒6章、Ⅰテモテ3章

今回は「執事の働き」についてともに学びたいともいます。第6回に「牧師とは」と題して学びましたが、新約時代の教会は、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる役割の人々がおりました(エペソ4:11-16)。今日の日本の教会では、牧師がそれらの働きを一手にカバーしている場合が多いのですが、その役割は大きく二つまとめることができます。それは「みことばを解き明かし」「聖徒たちを整えること」です。加えて前回は登場しませんでしたが、教会には他にも「長老(監督)」とか「執事」と呼ばれる働きがあります。これらの働きは、教会が成長するに従って、使徒たちが諸教会を巡回し、不在の間も、教会を継続して牧会するために発展していきました。先ほど話した「みことばを解き明かし」「聖徒たちを整える」働きは、主に「長老(監督)」に引き継がれていきました(長老教会では、長老が更に「宣教長老」と「治会長老」に分かれており、前者がいわゆる牧師で、後者は信徒が担っています)。そして、よりきめ細やかな牧会をするために必要とされたのが「執事」の働きです。私たちの教会では、この執事の働きを「役員」と呼んでいます。聖書に「役員」という働きは登場しませんが、法律(宗教法人)上、執事をそのように呼んでいるのです。今日はこの執事(役員)の働きについて学びましょう。

初代教会の初めの執事は7人でした(使徒6章)。教会が成長するにつれ、教会の働きも広がり、複雑化していきました。これは必ずしも悪いことではありません。人が集まるところ、当然、問題も起こるものです。大切なのはその問題をどう解決するかです。ここで登場している問題は、やもめたちに対する配給の問題でした。当時の教会は、一人では生活できないやもめたちの生活を支えていました。しかしその中でどうやら、ヘブル語を話すやもめたちの方が、ギリシャ語を話すやもめたちよりも、優先されていたらしいのです。分かりやすく言えば、地元の人優先だったということでしょうか。でも食べ物のことですから、そんな簡単に「ああそうですか」とはいきません。しかも「弟子たちが増えるにつれ」とありますから、やもめの数もどんどん増え、使徒たちにしてみれば、資金面でも今後どうやりくりしたらいいのか、まさに頭の痛い問題でした。 

でも一番、使徒たちを悩ませていたのは、祈りとみことばの奉仕に時間をとれないことでした。そこで彼らはこう提案しました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」これが執事の働きなのです。今日でいうと、牧師が「祈りとみことば」の奉仕に専心できるよう、その奉仕の尊さを理解し、その他の業務を担い、支え、協力する存在なのです。具体的には「研修などへの派遣、プライバシーの確保、経済的理解、健康や休養などへの配慮なども含まれます(クリスチャン生活百科)」。役員は信徒の意見を代表する人だという意見もありますが、それが第一の目的ではありません。むしろ教会全体にみことばが正しく伝わるよう整える人なのです。教会は人の意見ではなく、みことば中心で動きます。 

執事の働きは単なる「実務」だけでもありません。その基準に「御霊と知恵に満ちた」とあるように「これは霊的な働き」なのです。やもめの食事の配給といった、作業を上手に出来ればよいというのではなく、ステパノのようにいざとなったら「福音を語り、霊的な判断の出来る人」でなければいけません。テモテ第一3章8-13節にはこうあります。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単なる実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。こう言われるとプレッシャーですか?もしそうならイエス様は、大失敗を経験し、自信を喪失していたペテロに「ご自分の羊を任された」ことを思い出してください(ヨハネ21章)。選挙で選ばれても、自分は相応しくないと思うなら、そんなあなたにこそ、ぜひ引き受けてほしいのです。 

執事(役員)は選挙によって選ばれますが、あなたはどのような思いで投票していますか?イエス様は12弟子を選ばれる際、徹夜の祈り捧げられました(ルカ6:12)。選挙は単なる人気投票ではありません。恐れと信仰を持って一票を投じましょう。そしてその結果を「みこころ」として受け止め、従いましょう。 



というのは、
執事の務めをりっぱに果たした人は、
良い地歩を占め、
また、キリスト・イエスを信じる信仰について

強い確信を持つことができるからです。
Ⅰテモテ3章13節



そこで、兄弟たち。
あなたがたの中から、
御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちを
この仕事に当たらせることにします。
使徒6章3節





2013年4月24日水曜日

その17 「パンを裂く群れ」 Ⅰコリント11章17-34節

前回は「礼拝する群れ」と題し、こう学びました。「初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らが『週の初めの日(日曜日)』に礼拝をもっていたことが分かります。イエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は仕事が終わってから、夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会をともにし、賛美をし、使徒たちの教えに耳を傾け、パンを裂く聖餐式をもっていました」。今日はこのパンを裂く「聖餐式」にフォーカスを絞りたいと思います。

初代教会の聖餐式は神聖なものでした。彼らは「主日の夜」、仕事の帰りにそのまま駆けつける者が多かったのでしょうか、兄弟姉妹の家に集まり、まずアガペー(主の愛)と呼ばれる食事会(今日の愛餐会)から始めました。そして落ち着いてきたころ、使徒たちの教えに耳を傾け、最後に改めてパンとぶどう酒を用意し、一つのパンを裂き一つの杯を回し飲みするという「聖餐式」を行っていました。この「一つのパンと一つの杯」には「私たちは同じ一つのキリストのからだに属する兄弟姉妹である」という意味も込められていました(Ⅰコリント10:17)。またその聖餐式には、キリストの十字架を覚えその死を告げ知らせる、大切な意味がありました。このように本来の聖餐式は、神聖な式であり、貧しい者や飢えている者への思いやりと愛に満ちていました。そこに集う者は、誰もが、「心」も「体」も満たされて、帰途につくことができたのです。 

しかし少しずつその形が崩れはじめました。福音が世界に広がるなかで、聖餐式も伝わったものの、その本質は次第に見失われていきました。彼らは、兄弟姉妹の中でも、特に裕福で社会的に力のある信徒の家に集まるようになりました。そして立場のある信徒は、特別な部屋に通し、先に食事を提供し、上等なぶどう酒をふるまいました。しかし貧しい信徒は、粗末な部屋に通し、質の低い料理とぶどう酒をふるまったのです。そして会話の内容も「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」といった分裂分派の議論だったり、「パウロ先生の話し方はなってない(Ⅱコリント10:10)」など働き人の批評など、時には、その場にいない他の信徒の噂話なども加わり、くだらない話題が、文字通り「酒のつまみ」となり、酔っ払っている者もいるしまつでした。こうして本来の聖さは失われ、この世の交わりと何ら変わらない(もしくはそれ以下の)、世俗的な交わりが出来上がりました。そこに集っても心は満たされず、むしろ不快になり、貧しい者たちは、惨めさを噛みしめながら帰らなければならなりませんでした(Ⅰコリント11:17-22)。 

もう一度、本来の姿を取り戻しなさい!パウロはこう言います。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです(23)」。つまり言い方を変えれば、もう一度イエス様から受けた本来の聖餐式に戻りなさいと言われているのです。本来の聖餐式は、私たちのために血を流された、イエス様の十字架を偲ぶ神聖なひと時です(24-26)。また「一つのパンから食べ、一つの杯から飲む」というのは「同じ一つのキリストのからだに属する兄弟姉妹である」ことを確認し、公に告白することでした。そういう意味において、私たちはもう一度、自分自身を吟味しなければいけないのです(28)。私たちはこの箇所を、自分自身に罪はないか、吟味し、悔い改めてから、主の前に出ると理解します。それも大切ですが、もっと身近な意味が含まれています。その直後に「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります(29)」とありますが、この「みからだ」とは、イエス様のからだのことです。また「わきまえる」とは「正しく判断する」という意味。つまり「教会はイエス様のからだであるのに、自分勝手な好き嫌いでズタズタに引き裂いてはいけない。ひとつとなりなさい!そういう正しい判断をしないで聖餐式に臨むならば、その飲み食いが自分にさばきをもたらす」とも戒められているのです。 

あなたが罪を犯さなければそれで良いのではありません。助けを必要としている人や、仲間外れにされている人がいるのに、何とも思わず自分だけ恵みに預かるなら、その飲み食いが自分にさばきをもたらすのです。寂しい思いで教会から帰らなければいけない人はいませんか?その人にあなたは何ができますか? 



したがって、もし、ふさわしくないままで
パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、
主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、
そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。(28)

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、
その飲み食いが自分をさばくことになります。(29)

Ⅰコリント11章27-29節 



2013年4月17日水曜日

その16 「礼拝する教会」 使徒20章5-12節 コロサイ2章20-23節


前回は「学ぶ教会」と題して学びました。しかし聖書にはこうあります。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます(Ⅰコリント8:1)」また「文字は殺し、御霊は生かす(Ⅱコリント3:6)」とも。このように間違った学びはかえって「有害」となります。しかし本当の学びは、まず「聞くこと」に始まると教えられました。それはもちろん、まず御言葉に聞くことであり、同時に、御言葉を解き明かす教師からも、教えられやすい心を持つことでもあります。このように、真の学びは、神と人に対する謙遜につながるのです。もとより、日本語の「学ぶ」には「師をまねる、まねぶ」から来ているとも言われます。同じようなことが、今日のテーマ「礼拝」にも言えます。

初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らは「週の初めの日(日曜日)」に礼拝を持っていたことが分かります。それはイエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで、日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は、早朝や夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会と聖餐式を持ち、賛美をし、教えに耳を傾けていました。パウロがトロアスを訪ねた時も、既に救われていた人々がパンを裂くために集まって来ました。その中にユテコという青年もいました。彼は仕事を終えてから、やっとの思いで駆けつけたのかもしれません。しかしパウロの話しがあまりにも長く続くので、ウトウトしてしまい、なんと三階の窓から下に落ちてしまいました。衝撃の「居眠り落下事件」です!しかしパウロは彼を抱きかかえてこう言います「心配することはない。まだいのちがあります」。そして生き返った彼とともに朝まで集会を続け、青年ユテコを家まで送り届け、慰められて別れるのです。この出来事はひとつの象徴です。それは礼拝に集う人々が経験していた、魂の再生(よみがえり)です。「屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった(20:8)」とありますが、礼拝を捧げる彼らの存在は、いのちの灯台として、この町を明るく照らしていたでしょう。

しかし人間はこの礼拝を好き勝手に変えてしまいます。コリント教会では、前回も話しましたが、礼拝がまるで「賜物発表会」のようになり「みんな私の賜物見て~」と言わんばかりに騒々しくガチャガチャになってしまいました。他方、コロサイ教会では、礼拝がやたらに儀式的でガチガチになり、自由がなく、イエス様ではなく天使を礼拝する異端(神秘主義)に陥ってしまいました。パウロはそのような礼拝を「人間の好き勝手な礼拝(コロサイ2:23)」と呼んでいます。人間の好き勝手にすると、やたら賑やかになったり、やたら伝統的で堅苦しくなったり、または、聖書の教えから外れてしまったりするのです。聖書はこう教えています。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです(ヨハネ4:23)」。「霊」とは聖霊のこと、「まこと」とは真理の御言葉のこと。聖霊の働かれるところには「自由」があります。しかし真の礼拝には、自由とともに、しっかりとした御言葉の説き明かしがあるのです。この両者のバランスが大切です。

私たちはイエス様ご自身から招かれています。イエス様はこう語られています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます(マタイ11:28-29)」。つまり真の礼拝とは、このイエス様の招きに応え、疲れた心を癒され、復活のいのちに満たされ、新しい一週間を始める時なのです。そして「一方的な恵み」を受けながら、少しずつ礼拝を、「捧げる者」へと成長させられていくのです。礼拝は本来、受けるものではなく、捧げるものです。何をささげるのか?私たちの心からの祈りと賛美、そして「私たち自身」です。それに加え「わたしから学びなさい(注2)」と言われているように、御言葉を聞いたら、自らを打ちたたいて、その御言葉に従わせていくことも大切です(Ⅰコリント9:27)。こうした礼拝を捧げる時、私たちの顔は礼拝堂に入る前と後とで違っています。なぜなら御言葉と御霊によって、新しく創り変えられるからです。

あなたは礼拝において、こういった「復活のいのち」を経験していますか?



彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(Ⅰサムエル1:18)

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34:5)






注1:ルカはユダヤ人のように日没から日没までを一日として数える仕方ではなく、ローマ人のように夜半から夜半までを一日として数える仕方をしている。なぜならこれはトロアスでの出来事だからである。つまりユテコの参加していた礼拝は、今日の「日曜の夜」のことを指している(F.F.ブルース)。

注2:「学びなさい(マセテ)」は、単に知的に学ぶという意味ではなく、模範から学びなさいという意味(BAG)。つまりイエス・キリストの人格(愛と義)に「まねぶ」ということ。

2013年4月11日木曜日

その15 「学ぶ群れ」 ローマ10章1-17節、Ⅰコリント15章1-5節

いままで「教会とは」と題し、「賛美する群れ」「祈る群れ」「話し合う教会」など、様々な角度から教会を見つめて来ました。そして今日のテーマは「学ぶ教会」です。今読んでいるこのテキストは、教会の聖書研究会のために書かれているものですが、これを読んでいる人は、学ぶ意欲の旺盛な人と言うことができるでしょう。元来クリスチャンは、よく学ぶ人たちです。クリスチャンはみんな頭がいいとか、頭がいい人しかクリスチャンになれないとか、そういうことを言っているのではありません。クリスチャンは、誠実に、福音を、まず聞こうとする人たちなのです。

外国人には、日本のクリスチャンがよく学ぶように見えるようです。加藤常昭師がこう書いています。「日本の教会を外国のキリスト者が訪ねて下さると、共通に言われますことの一つは、日本人というのは教会でもよく勉強をするということです。礼拝において、日本人たちは分厚い聖書を手元に置き、それを開きながら説教を聴きます。そして説教者が聖書を引用すると一斉にそれを開くのです。人によってはメモを取りながら聞いている。外国では必ずそうするわけではありません。その他にも、読書会や聖書研究会などなど…少なくとも今までの教会は、よく学ぶ教会でした(要約)」。確かに私たちの教会でも、もちろん礼拝には聖書を持参し、もっと知りたくなれば「信仰入門クラス」や「洗礼準備会」という機会が設けられています。洗礼を受けてからは「聖書研究会」や、最近では「リバーサイド聖書塾」など、学ぶ機会は十分に備えられています。

でもそのような姿勢は、だんだん失われつつあるように思われます。日本全国的に見ても、聖書研究会の参加人数は激減しています。忙しい現代人にとって、平日、教会に集うのが難しいのがその主たる理由ですが、原因はそれだけでしょうか。学びのスタイルも変化してきています。誰かから教えられるのではなく、自分たちで聖書を読み、思った事を自由に分かち合うスタイルが好まれます。日本だけではありません、世界的にもそのような傾向が見られます。つまり「学びたくない」「お話を聞くのはちょっと…」「そういう時間はなるべく短く」できれば「もっと自分がしゃべりたい」「自分も教えたい」「自分の賜物を活用したい」という時代なのでしょうか。積極的で自主的なのは良いのですが、それだけでは大切な何かが抜け落ちています。もちろん「話す(宣べ伝える、互いに教える)」ことも大切ですが、それと同時に「しっかり聞く姿勢を持つ」というのは、クリスチャンの「信仰の本質」に関わる事なのです。聖書にもこうあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)」。

「聞きたくない」という姿勢は、現代に始まったことではなく、人間に宿る罪の性質です。コリントの教会にその問題を見ることができます。彼らは、教師から御言葉の説き明かしを聞くより、自分の預言や異言といった賜物を、みんなの前で披露することに一生懸命でした。そして礼拝中であるにもかかわらず、次々に立ち上がって奇声のラッパを吹いていたのです(Ⅰコリント13-14章)。しかも彼らは、パウロから教えられた福音にとどまらず、「私たちはこう思う」「こっちの方が私たちにフィットする」と、復活の教えを削除し、福音を捻じ曲げてしまいました。そんな彼らに対してパウロはこう言っています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう (Ⅰコリント15:2 新共同訳聖書)」。つまり、よく聞かないで、うろ覚えした福音を自分なりに解釈し、一生懸命信じたとしても、それでは「信じたこと自体が、無駄になってしまう」というのです。感覚的な日本人には、厳しく聞こえるかもしれませんが、それくらい、まず、よく聞いて、その福音に留まることが大切だ、ということです(注1)。

あなたは「教えられやすい心」を持っていますか?耳は二つ、口はひとつ。まずはしっかり御言葉を聞いて、教えられることが大切です。そうして初めて、必要なことを、必要な人に、語ることができるのです。



熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
箴言19章2節

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、
非常に熱心にみことばを聞き、
はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。
その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。
使徒17章11-12節


また、もしあなたがたが
よく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。
Ⅰコリント15章2節









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注1:「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」が、新改訳聖書では「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら」と訳されています。これは「エイケー」というギリシャ語が「無駄に」とも「よく考えもしないで」とも訳される言葉だからです(BAG)。どちらに解釈したとしてもメッセージは同じです。「よく考えもしないで信じ、聞いた福音からそれていくならば、そのような信仰は神様の前に無駄だ」というわけです。

2013年3月14日木曜日

その14 「話し合う教会」 マルコ8-9章、使徒6,15章

前回は「やもめと教会」について学びました。その中で私たちはこう学びました。「うっかりすると、私たちは教会を、辛い人間に、慰めのサービスをするところと考えてしまいます。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働き、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きるのです。これこそ聖書で言うところの『本当のやもめ』なのです」。聖書には、この「やめもたちに関する議論」が登場します。毎日の配給に対する不平不満から生まれた議論です(使徒6:1-6)。どの教会にも問題はあります。大切なのはそれをどう解決していくかです。今日のテーマは「話し合う教会」です。 

はじめに「議論好き」は深刻な「病気」です。マルコ8章と9章を見ると、実に様々な「議論」や「論争」が登場します。「相手を陥れるために、議論を吹っ掛けてみたり (8:11)」「相手に責任をなすりつけて、お前が悪いと言い張ってみたり(16)」「『できなかった』理由を並べて、自分の失敗をなんとか正当化しようとしたり(9:14)」「自分の方が偉いと、言葉の多さや、声の大きさで、相手を威圧してみたり(34)」。気をつけなさい!議論に勝っても、決してあなたは幸せにはなれません。「議論に勝って、人の心を失う」と言いますが、勝てば勝つほど、あなたは、むしろ孤立していくでしょう。そうすると、ますますエスカレートし、時には信仰(御言葉)さえも持ち出し、自分を正当化し、相手を悪者にし、攻撃するのです。すると、あなたはますます孤立していくでしょう。まさに悪循環です。議論で相手を変えることはできません。心に残るのは「うらみ」と「敵意」だけです。聖書にはこうあります。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ…絶え間のない紛争が生じるのです(Ⅰテモテ6:4-5)。 

でも「話し合い」は大切です。成熟した共同体は、話し合いで問題を解決します。生まれたばかりの教会は、イスカリオテ・ユダの欠けを補うために「くじ」でマッテヤを選びました(使徒1:26)。しかし「やもめに関する議論」の際、弟子たちは「あなた方の中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人を7人選びなさい(使徒6:3)」と言いました。つまり「自分たちでよく祈って、みことばに照らし合わせ、話し合って解決しなさい」といったのです。もっと大きな問題になれば教会代表者たちによる話し合いが行われます。使徒15章に、異邦人が救われた際、彼らに割礼をほどこすべきか否かという、ユダヤ人にとっては避けては通れない難題にぶちあたりました。その際、彼らはどうしたでしょう?「鶴の一声」ならぬ「有力者の一声」で決めたでしょうか?いいえ、教会の代表者たちが集まり、会議を開き、激しく本音でぶつかり合いながら、答えを導きだしていったのです。これが有名な「エルサレム会議」です。よく「会議は不信仰だ」という人がいますが、そんなことはありません。そこに信仰があれば、会議は素晴らしいのです。 

では「議論」と「話し合い」はどこが違うのでしょうか。基本的に良い会議には、互いに対する「尊敬」があります。聖書にもこうあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」。自己中心な議論は、自分のことしか考えていません。いかに、相手を攻撃し、黙らせ、打ち負かそうか、とばかり考えています。そして、自分の方が正しくて、賢くて、上に立っていることを、見せつけようとするのです。そこから生まれるのは、絶え間ない「争い」と「破壊」と「分裂」です。しかし、御霊に満ちあふれたクリスチャンには「相手の意見からも教えられたい」「みんなで主に示されたことを持ち寄って、より完全なキリストのからだを建て上げていきたい」という、神様と教会、そして兄弟姉妹に対する愛があるのです。なぜなら、そこには「イエス様はその人のためにも十字架にかかられた。その人の中にも主の御霊が宿っておられる」という敬意があるからです。でも残念なことに、教会での話し合いも「肉の議論」となってしまうことがあります。そうならないためにも、教会のリーダーを始め、一人一人が「御言葉と祈り」を中心に生きていなくてはなりません。御言葉も、読み方によっては凶器(きょうき)となります。「あの人、この人」ではなく、まず自分の心を吟味し、御前に悔い改めなさい。そこから「神の国」と「平和」が広がるのです。 

言葉には二種類あります。一つは「教会を建て上げることば」もう一つは「教会を破壊する言葉」です。 



これらのことを人々に思い出させなさい。
そして何の益にもならず、
聞いている人々を滅ぼすことになるような、
ことばについての論争などしないように、
神の御前できびしく命じなさい。
Ⅱテモテ2章14節




2013年3月7日木曜日

その13 「やもめと教会」 Ⅰテモテ5章

前回は「看取る(見送る)教会」と題して、この世での最後の大仕事「死」への備えについて学びました。特に、自分が、何に感動し、何に希望を置いて生きて来たのかを証しにまとめることは大切です。聖書にもこうあるからです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。でも、そもそも、なぜこのような話しになったのでしょうか?その始まりは「年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1」」のひとことでした。実はその言葉には続きがありました。今日はそれを学びましょう。

「やもめの中でも本当のやもめを敬いなさい(3)」。これが「年寄りを叱ってはいけない」の続きです。聖書には、やもめを大切にするようにとの教えが溢れています。旧約聖書では「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる(出エジプト22:22-23)」。新約聖書でも「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです(ヤコブ1:26-27)」とあります。「やもめ」と「みなしご(孤児)」は、しばしばセットで語られています。それは当時の社会の中で、どちらも一人では生きていけない、弱くて、助けの必要な人たちだったからです。神様の愛を信じる者は、弱い人をも愛するように教えられているのです。 

でも、わざわざ「本当のやもめ」とあるのはなぜでしょうか?きっと当時の教会の中では教会の善意に甘えて、しまりのない生活をしている人が少なからずいたのでしょう。聖書にはそのことが厳しく指摘されています。「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです(6)」「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します(13)」。ですから当時の教会は下記のような基準を定めました。「もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます(16)」。つまり「身内のお世話は自分たちで」という原則です。当たり前のようですが、そうではない現実があります。クリスチャンではあっても、自分の親の世話を、近くの教会にお願いし、自分は遠くの教会で安らかに信仰生活を送っている場合があります。決して悪気はないと思いますが、聖書ははっきりと「そのような人の宗教(信仰)は虚しいのです(ヤコブ1:26)」とあります。一人一人「教会に負担をかけないように」との配慮を忘れてはいけません。 

教会を「サービスを受けるところ」と思ってはいけません。加藤常昭師はこう指摘します。「やもめだけではありません。私たちはうっかりすると、教会を、つらい人間、悲しい人間に、慰めのサービスをしてくれるところと考えてしまうことがあります。最初はそうでも、福音を聞き、洗礼を受け、生まれ変わると考え方が変わります。もし変わらないと、あちこちの教会に行って、どこの教会のサービスが良いか、どこの牧師が親切で、どこの牧師が不愛想とか、まるで商店のサービスを比べるように論評したりするようになります。教会に長く来ている方の中にも、そういう教会生活をしている方達がいないわけではありません。そういう方たちに限り(思い通りのサービスが受けられないと)『教会に躓いた』と言います。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働きます。自分の寂しさや悲しみを乗り越えて、奉仕し、困っている人を助けることを喜びとするのです。そう生きてきた人は、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きることができるようになります。それこそが『本当のやもめ』なのです(本文要約)」。 

聖書には、そのようなやもめがたくさん登場します。レプタ銅貨二枚を捧げたやもめがいました。それは本当に僅かな捧げものでしたが、イエス様は彼女に目をとめ「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん捧げました(マルコ12:43)」と褒められました。また救い主を待ち望み、祈りと断食をもって神に仕えていたアンナも、神の目にとまり、幼子イエスに会うことが許されました。彼女たちは「生きてはいても、もう死んだ者」ではなく、本当の意味で最後まで生き抜いたのです! 

「誰も自分に何もしてくれない」と嘆くより、神と人とのために出来ることを喜ぶ人でありたい。たとえそれが、どんな小さなことであったとしても。もし何もできなくても、誰かのために祈れることを喜びたい。そんな生き方を全うしたい。



ほんとうのやもめで、
身寄りのない人は、望みを神に置いて、
昼も夜も絶えず神に
願いと祈りをささげています。
Ⅰテモテ5章5節







2013年2月27日水曜日

その12 「看取る(見送る)教会」 Ⅰテサロニケ4章 ヨハネ11章


前回は「家族としての教会」と題し、特に高齢者について学びました。「近年、高齢者虐待が深刻な社会問題となっています。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねる)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金の横取り)その他にも言葉による暴力などがあげられます。しかし聖書には、お年寄りについて、このように教えられています。『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)』。『年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1)』」。こういったクリスチャンの高い倫理性はどこからきているのでしょう。それは、人が「神のかたちに造られている(創世記1:27)」という人間理解から来ています。またそれは、教会の葬儀においても、見られます。

今日のテーマは「看取る(見送る)教会」です。家族としての教会は、人生のあらゆる場面を共有します。出産のように喜びの時もあれば、お葬式のように悲しみの時もあります。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」とありますが、私たちはそれらすべてにおいて、このことを実践するのです。今回は、その中でも、葬儀について学びたいと思います。よく「ゆりかごから墓場まで」と言われますが、教会は「ゆりかごから天国まで」です。ですから、単に「看取る」のではなく「見送る」としておきました。キリスト教葬儀には大きく三つの意味があります。①遺体の葬り(最後まで故人への愛と敬意を表す)②遺族への慰めの気持ちを表す ③信仰からくる希望を表す。それら一つ一つについて見て行きましょう。 

まずは遺体の葬りです。先日、その名も「遺体 ~明日への十日間~」という映画を観て来ました。題名からして、観るのを躊躇したのですが、看取る機会の多い者として、観なければいけない気がして足を運びました。そして観ている最中、ずっと涙が止まりませんでした…。2011年3月11日に起きた東北大震災からの10日間を追った映画(実話)です。学校の体育館が遺体安置所となり、おびただしい数の遺体が運ばれて来る。狂気に陥りそうな混乱の中で、精一杯の思いを込めて、遺体を弔(とむら)う人々の姿が描かれていました。遺体を丁寧に扱うことは、故人の尊厳を最後まで守ること。それは、遺族と誠心誠意向き合うことにもつながる。そんな事を教えられました。クリスチャンは遺体を粗末にするし、葬儀にもこだわらない、と誤解をしている人がいますが、決してそんなことはありません。クリスチャンこそ「神のかたちに造られた人」を、最後まで、その尊厳と威厳を損なわないよう、丁寧に、心を込めて、葬りの式を行うのです。 

続いて遺族への慰めです。葬儀は伝道集会ではありません。遺族の感情を無視して、一方的に福音を語っても、悲しみにくれる遺族の心に届くでしょうか。そのような配慮のなさは、むしろ未信者にとって躓きとなります。イエス様はラザロの死に際して「涙を流され」ました(ヨハネ11:35)。大事なのは「泣く者と一緒に泣くこと」です。テクニックではありません。遺族の心に寄り添うことによって、哀悼の意を伝えるのです。同時にクリスチャンは「望みのない人々のように悲しみに沈まない」事も大切です(Ⅰテサロニケ4:13)。不自然に「ハレルヤ」と明るくする必要もありませんが、悲しみに沈み過ぎず、主にある復活の希望を証しすることも忘れてはいけません(4:18)。 

最後に信仰からくる希望の表明です。残された者が、果たすべき使命(大仕事)がここにあります。それは涙を流すことだけではなく、故人が残した信仰をしっかり神と人との前で証しすることです。単に思い出を語るだけではなく、故人が何に希望を置き、何に感動して生きて来たかを、故人に代わって証し続けるのです。そのことが悲しみに沈む遺族に対して「私のために悲しまないでください」という最良の慰めにもなるのです。だから、生きている時から自分の証しをまとめ、牧師に渡しておくことは大切です。聖書にもこうあります。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。やがて訪れる死に対して、今から出来る備えがある。それこそが「証しの準備」なのです。 

あなたは自分の人生を通して伝えたいメッセージを持っていますか? またそのメッセージに、実際に生きていますか? 葬儀は、あなたがどのように生きて来たかの集大成なのです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。これは御国での再会の希望であるとともに、信仰に生きた人の希望が、残される者の心の中で生き続けことでもあります。 



イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネ11章25節


眠った人々のことについては、
兄弟たち、あなたがたに
知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように
悲しみに沈むことのないためです。
Ⅰテサロニケ4章13節







2013年2月21日木曜日

その11 「家族としての教会」 Ⅰテモテ5章1節

前回は「祈る群れ」と題してこう学びました。「一人で祈ることも大切です。イエス様はいつも寂しいところで祈っておられました。でもイエス様はこうとも教えられました『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)』。集まって祈る時、その力は、かけ算的に増すのです!」。このように私たちの信仰は、個人主義ではなく、共同体を大切にしています。そして共同体の最もよく表す表現が「家族」です。今日はこの「家族としての教会」について一緒に学びましょう。

近年「高齢者虐待」が隠れた大問題となっています。こどもへの虐待ほどニュースになりませんが、その潜在的な件数はかなりになると見られます。大きくは、家庭内と施設内で起こるケースとに分けられます。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねるなど)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金・財産を不正に横取りする)その他にも言葉による暴力などがあげられます。聖書には、たとえ誰も見ていなくて、本人さえ気づかなくても、盲人や難聴者に対して不条理な扱いをすることを厳しく戒めています。「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である(レビ19:14)」。同様に、弱くなっても、認知症が進んでも、老人に対して、神を恐れ、キリストに対するように接しなければいけないと聖書には教えられています。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)」。これは、現代の日本においても大切なおしえではないでしょうか。 

パウロは牧会書簡の中で、若い伝道者テモテに「年寄りを叱ってはいけません。むしろ父親に対するように勧めなさい(Ⅰテモテ5:1)」と教えています。このことについて加藤常昭師はこう教えています。「私ども人間が年をとると、ますます円満になり、問題の少ない人間になるかというと、そうはいきません。若い時は若い時なりに問題があり、壮年期には壮年期の問題があり、年老いれば、それなりの悩みと苦しみが出てまいります。肉体の力が衰えるだけではなく、心の力も衰え、つまらない間違いをするようになります。自分で自分の心をコントロールすることができなくなり、かえって裸の欲望に振り回されて生きてしまうようなことが起こります。『またそんな事をやっちゃって!』と叱られるようなことをしてしまうことを、聖書は否定していません。でもその時は『叱ってはいけない』『父親に対するように勧めなさい』と教えられているのです。『勧める』とは『丁寧な言葉で気づかせる』ことです。若くても年老いても罪は犯します。やはり教会ですから、罪をうやむやにはせず、気づかせることは大切です。でもこの『勧める』というギリシャ語には『慰める』という意味も含まれています。老人が罪を犯す時、一番うろたえているのは老人本人です。ですから叱りつけるのではなく、『慰め、丁寧に諭すこと』が牧師の務めなのです(本文要約)」。教会が、愛と尊敬とを持って、お年寄りに接することが大切なのです。

でもお年寄りには「一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とも勧めたいと思います。教会は、お年寄りだけの居場所ではありませんし、若者だけが、お年寄りに気を使わなければいけないわけではありません。聖書には「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とあります。直接には、人の上に立つ人々のことですが、家父長制度や年功序列といった傾向の強いユダヤの社会では、年長者に対する教えとそて理解しても良いでしょう。どうですか、あなたは見慣れない若者たちが、我がもの顔で教会を闊歩(かっぽ)し、なじみのないメロディーで賛美していても、それを喜ぶことができますか?小さな赤ちゃんが、慣れ親しんだ静かな礼拝で声を出してしまうとき、(もちろん限度はありますが)その幼い魂を心から受け入れることができますか?聖書には「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです(マタイ18:5)」と教えられています。

大切なのは、それぞれの世代が、自分の権利を主張することではありません。むしろ互いに、認め合い、配慮し合い、仕え合う姿勢が「家族としての教会」には必要なのです。若者たちは、今まで教会を支えてこられた先輩方を尊敬し、大切にすべきです。同時にお年寄りたちは、これからの教会を担って行く若者たちを励まし、受け入れるべきです。私たちは愛において一つです。



あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
レビ19章32節

年寄りをしかってはいけません。
むしろ、父親に対するように勧めなさい。
Ⅰテモテ5章1節

あなたがたの間で一番偉い人は
一番年の若い者のようになりなさい。
ルカ22章26節




2013年2月14日木曜日

その10「祈る群れ」 使徒の働き12章

前回は「賛美する群れ」と題して、このように学びました。「賛美は『霊的な戦い』でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと武装した兵隊の前に、聖歌隊を配置しました。そして聖歌隊が高らかに賛美しはじめた瞬間、主は不思議な方法で、勝利を与えて下さったのです!今でも、多くの教会ではメッセージの直前に聖歌隊が歌います。それは賛美がささげられる時、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです」。そもそも賛美は、メロディーのついた祈りでもあります。賛美と祈りは切っても切り離せません。今日は「祈り」について学びたいと思います。 

「教会ってどんなところ」と聞かれれば「祈りの家です」と答えることができます。イエス様は宮(礼拝のささげられる場所)のことを「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」(マタイ21:13)とおっしゃられました。でもどうでしょう。私たちの教会は「祈りの家」となっているでしょうか?ここ数年私たちの教会の、聖研祈祷会出席者は減っています。これは私たちの教会に限ったことではなく、日本中、いや世界中の先進国にある教会に共通する傾向でもあります。生活スタイルが変わり、週の半ばに、教会に来にくくなった、という事情もあるのでしょう。でもそうなら、私たちは「集まって祈る機会」をどこかで補っているでしょうか?一人で祈ることも大切です。イエス様はいつも寂しいところで祈っておられました(マルコ1:35)。でも聖書には「集まって祈ることの大切さ」も強調されています。あのペンテコステの直前にも、弟子たちは一つところに集まって祈っていました(使徒1:14,2:1)。またイエス様もこう教えています。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)。集まって祈る時、その力は「かけ算的」に増すのです! 

初代教会は、とにかく集まってよく祈りました。福音がすさまじい勢いで広がるなか、何とかそれを留めようとする勢いも増しました。ヘロデ王は、弟子の中でも中心的な役割を果たすヤコブに目をつけ、彼を剣で殺しました(使徒12章)。これは当時、殺人犯と背教者だけに下される屈辱的な刑でした。でも、その刑を、ユダヤ人たちは喜んだのです。そこでヘロデ王は、もっと民に気に入られようと、次は、事実上の教会の最高指導者ペテロをとらえて、殺害しようと考えたのです。もはや絶体絶命です。その時教会は何をしたでしょうか。なんと祈り始めたのです!聖書にはこうあります。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた(5)」。この「熱心に」とは、ギリシャ語で「エクテノース」といい、他にも「熱く燃え上がる、熱烈に、終わることなく」などの意味があります。それほど教会は熱心に祈り続けたのです。その結果何が起きたでしょう。ペテロは二本の鎖につながれて、兵士の間に寝かされ、戸口には番兵が監視していたのに、御使いの「急いで立ち上がりなさい」との呼び掛けにこたえて立ち上がると、鎖は解け落ち、その後もまるで幻の中を歩いて行くかのようにして、牢の外に救いだされたのです。その瞬間、御使いたちは見えなくなりました。ペテロは我に返り、まっさきに皆が祈っている場所に急ぎました。 

賛美が霊的戦いの「最前線」なら、祈りは「最強の後方支援」です。ペテロが祈り会の場所に到達し、戸を激しくたたくと、ロダという女中が応対しました。そしてペテロの声だと分かると、戸をあけもせず、奥に入って行き、他の弟子たちに「ペテロが戸の外に立っている」と伝えました。その時の反応は意外なものでした。ある者は「あなたは気が狂っているのだ」と言い、ある者は「それは彼の御使いだ」と言ったのです。一体彼らは何を信じていたのでしょう?ここから二つのことを教えられます。一つは、信じて祈ることの大切さです。ペテロが救われたから、ほほえましいエピソードですが、やはり彼らの不信仰は反面教師です。イエス様はこう教えられました。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます(マタイ21:22)」。もう一つ教えられるのは、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、不完全な祈りさえも聞いてくださるイエス様の憐みです。私たちは、この憐れみがあるから、失望せず、なおも大胆に祈り続けることができるのです。奇跡を行う力は、私たちの祈りそのものではなく、主ご自身の内にあるのです。 

教会で、集まって、祈ることを大切に。世間話なら他でもできます。でも互いに祈り合うことは、クリスチャン同士にしかできません。どんな小さな祈りの輪にも主がともにいて下さいます。 



もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、 
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。
(マタイ18章19節)

だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。
(マルコ11:24




2013年2月7日木曜日

その9「賛美する群れ」 Ⅰコリント14:15 Ⅱ歴代誌20:21

前回は「互いに」と題して、「互いに赦し合うこと」と「互いに教え、戒め合うこと」を学びました。聖書にはこうあります。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロサイ3:16)」。興味深いことに、互いに教え、戒め合うことと、賛美がセットで記されています。教え戒めることは、必ず賛美とセットで行わなければいけない、と言われているようでもあります。互いに戒め合いながら、ともに賛美することにより、私たちの心は主に向けられ、愛し赦し合うものとされるのです。今日は、この賛美について学びましょう。

「詩と賛美と霊の歌とにより」とありますが、これはどういう意味でしょうか?まず「詩」とは旧約聖書の「詩篇」のことです。旧約の時代から、琴などに合わせて歌われていました。また「賛美」とは、詩篇以外の賛美のことです。分かりやすく言えば、時代の中で生まれてきた「讃美歌」です。最後に「霊の歌」とは、礼拝などにおいて神様に導かれて「即興で歌われた賛美」のことです。この「霊の歌」について、コリントの教会では混乱がありました。当時のコリント教会で特に強調されていた聖霊の賜物は「異言」でしたが、これは神様に心を向ける中で、自然に口からあふれてくる霊的な言葉です。それによって祈る人々は、神様と格別に深い交わりを実感し、恵まれるのですが、一つ残念なのは、聞いている人々に、その意味が分からなかったことです。また当時の礼拝では、この異言にメロディーをつけて、突然立ち上がり、即興で歌い出す人々がたくさんいたました。本人は恵まれるのですが、周りの人々はどうだったでしょうか?パウロは、この状況に対して、次のようにアドバイスしています。「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう(Ⅰコリント14:15)」。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい(40)」。 

「知性において賛美する」とはどういうことでしょう。それは、聞いている人々にも、分かる言葉で賛美をするという意味です。そうすることにより、歌っている人が、いったい何に感動して、場合によっては涙を流して歌っているかが分かるようになるのです。クリスチャンでない人が同席する場合はなおさらです。現代の教会でも、求道者がいるのに、クリスチャン用語を並べて賛美するなら、聞く人々には「異言」のようでしょうか。「リカイ(理解)」の反対は「イカリ(怒り)」。そのような集会に「また来たい」と思うでしょうか。でも配慮をして、初めての人にも分かりやすい言葉で賛美をするなら、賛美は、素晴らしいメッセージとなり、証しとなるのです。実際に、私たちの教会でも「プレイズタイムの賛美が印象に残ったからこの教会に決めた」と言われることがしばしばあります。賛美は、メロディーに乗せて、神様のメッセージを心に届ける、最良の方法なのです。このように、賛美は、神様をほめたたえるタテ方向の歌ですが、聞く人々への証しという意味ではヨコ方向の歌でもあります。この両方向を大切にささげられる賛美は、人々の徳を高め、心からの「アーメン(その通りですという同意)」を生みだすのです(Ⅰコリント14:13-17)。 

また賛美は「霊的な戦い」でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと兵隊の前に、聖歌隊を配置しました(Ⅱ歴代誌 20:21)。その聖歌隊が「主に感謝せよ、その恵みはとこしえまで!」と賛美しはじめたその時、主は不思議な方法で、敵を打ち負かして下さいました。私たちの目の前にも、問題や敵が立ちふさがることがあります。自分の力や策略では、どうにも前に進めないと思うことがあるかもしれません。その時、私たちに何ができるのでしょうか?その時こそ、賛美なのです!イエス様は十字架にかかられる前夜、賛美を歌ってからオリーブ山に向かい、ゲッセマネで霊的に勝利されました(マタイ26:30)。またパウロとシラスは、真夜中の獄中で賛美を捧げ、圧倒的な奇跡を体験しました(使徒16:25)。今でも多くの教会で、メッセージの直前に聖歌隊が歌うのも同じです。賛美がささげられるところ、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです。 

クリスチャンの特徴はとにかくよく歌うことです。礼拝においてはもちろん、葬儀においてもです。なぜなら賛美こそ、私たちの力だからです。また賛美は、私たちの信仰告白であり、祈りでもあります。ところで葬儀に歌ってもらう愛唱歌を決めていますか?それは、あなたが今まで何を信じ、何に感動し、何に人生を捧げて来たのかを証しする、人生の集大成となるのです。 



ですから、私たちは
キリストを通して、賛美のいけにえ、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、 
神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル13章15節)




2013年1月31日木曜日

その8「互いに建て上げられる」 コロサイ3章12-17節

前々回は「牧師の働き」そして前回はアクラとプリスキラの姿を通して「信徒の働き」について学びしました。そして私たちは、次のような結論に導かれました。「牧師と信徒との関係は、決して上下関係でも、従属関係でもありません。どちらかが倒れる時には、どちらかが支え、ともに手を取り合って福音を宣べ伝える『主にある同労者』なのです」。今回は、視点をもう少し変えて「兄弟姉妹」の関係について教えられたいと思います。主にある交わりの姿とは、どんな姿なのでしょうか?

まず最初に私たちは「赦し合う」べきです。聖書にはこうあります。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい(コロ3:13)」。特に「主があなたがたを赦してくださったように」とあることに注目したいと思います。私たちに赦す力なんてありません。「怒り」は「ねたみ」にも似ていて、相手のことを考えると、余計に相手に対する負の感情に支配されてしまうのです。私たち人間は、そのようにとても弱い存在です。でもイエス様は、そんな私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。そして一方的な愛と恵みのゆえに、私たちの罪を赦してくださったのです。決して「王に大きな負債を許されたのに、友人の小さな借金を許せなかったしもべ」のようになってはいけません(マタイ18:21-35)。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」との主の祈りを、実際に生きることが大切なのです。

でも「赦し合う」だけでは足りません。「互いに教え、互いに戒める」ことも大切です。聖書にはこうあります。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロ3:16)」。愛だけが強調されると、不正や罪でも赦し合ってしまう「なれあい」が生まれます。それは本当の愛ではありません。クリスチャンの交わりが、いつでも聖く、塩味の効いたものであるためには「互いに教え、戒める」という自浄(じじょう)作用が必要不可欠です。しかし、それは気づいたことを、何でも厳しく言えばよいというものではありません。まず大切なのは「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ることです。そして、もう一つは「神に愛されている者として、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け(コロ3:12)」ることです。御言葉に整えられず、自分勝手な感情で人を戒める時、「盲人が盲人の手引きをする」ように、二人とも穴に落ちて、大けがをしてしまうでしょう(マタイ15:14)。また、どんなに良いことを言っても、どんなに正しくても、愛がなければ何の役にも立たないのです。 

このように聖書においては「互いに」という姿勢が大切にされています。牧師をはじめとする教役者に「やってもらう」のが教会ではない。自分たちで「互いに、互いを、牧会する」姿勢こそ、本来の教会の姿なのです。これを「相互牧会」といいます。昔の話しになりますが、2009年に開催された第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が優勝した際、イチローがこんなことを話していました。「チームにはリーダーが必要だという、安易な発想があるが。一人一人がモチベーションと自覚をもって戦えば、そんなものはいらないということを今回のチームが証明してくれた」。教会においても、イチロー風に言えば、一人一人のモチベーションの高さが必要なのです。信徒だから責任がないのではなく、信徒も牧師も「同労者」として立ち上がる時、初めて「あらゆる国の人々を弟子とする(マタイ28:19)」という大宣教命令が実現可能となるのです。 

では、いっそのこと牧師はいらないのでしょうか?いいえ、その逆です。相互牧会が浸透すればするほど、牧師は本来の職務に集中できるようになります。それは「祈りとみことば」であり(使徒6:4)、「信徒を整えて奉仕に向かわせる」信徒教育の働きです(エペソ4:12)。このように、牧師は群れ全体に気を配り、細かいところは、信徒同志が互いに声を掛け合い、助け合う。そうして、ひとりも漏れることなく天の御国にたどり着けたら、それこそ最高ではないでしょうか。

無関心と自己中心の世の中にあって、教会こそがホッとする心のオアシスでありますように。私たちは全く違う者でありながら、キリストの十字架によって結び合わされた兄弟姉妹です。また同時に、少しずつ「兄弟姉妹にされていく」者でもあります。いきなり兄弟姉妹に完璧を求めるのではなく、焦らずゆっくり、愛の内に建て上げられていきましょう。


また、互いに勧め合って、
愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、
いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、
かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
(ヘブル10章24-25節)




2013年1月24日木曜日

その7「同労者」 使徒18章

前回は「牧師の働き」について学びました。私たちの、健全な教会生活と信仰の成長のためには、正しい牧師理解が必要不可欠です。牧師の働きにおいて特に大切なのは「みことばの説き明かし」です。そのことについてこう学びました。「ところで私たちは主日ごとの『みことばの説き明かし』をどのように聞いているでしょうか?『○○先生のお話し』という具合に『単なる先生の言葉』とか『個人的な見解』として聞いていないでしょうか?また『今日はおもしろかった』『今日の先生の服は?』と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は『人の言葉』ではなく『神の言葉』として聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません」。その他にも、聖徒たちを整えて奉仕(ミニストリー)に用いる働きについても学びました。今日は「信徒の働き」についてです。

牧師と信徒のあるべき関係とは何でしょうか?以前「万人祭司」について、こう学びました。「カトリック教会では、教皇がトップで、その下に司教や司祭がおかれ、信者は彼らの存在を通してでなければ正式には『罪の赦し』を受けられません。しかしプロテスタント教会では、誰でも、信仰によって、大胆に神様の前に出ることができ、罪の赦しを受けることができると教えています」。ただし「万人祭司」は「万人牧師」ではなく、「働きの違い」や「教会の秩序」は大切にしなければいけません。聖書には「みことばを解き明かす長老(監督)を尊敬するように」と教えられています。それは尊敬がなければ、解き明かされるみことばを「神の言葉」として聞くことができないからです(Ⅰテモテ5:17)。でも上下関係ではありません。昔、牧師に対して「平信徒」という表現が使われました。でもその理解は間違っています。牧師と信徒はあくまで同労者です。 

パウロの働きを助けた、アクラとプリスキラという夫婦がいました(使徒18章)。細かい理由はさておき、彼らは他のユダヤ人とともにローマを追放され、コリントに移り住んでいました。そこでパウロと出会います。回心については書かれていないので、おそらくローマで福音を聞き(もしくはエルサレムのペンテコステを体験し)クリスチャンになっていたのでしょう。彼らは天幕職人という「同業者」だったので、一緒に住んで働き始めました。それと同時に彼らはパウロの伝道を支える「同労者」となったのです。ここに本当に麗しい教役者と信徒との関係を見ます。それは「同労者」すなわち同じ目的を持ちながら、互いに支え合う、パートナーとしての姿です。 

彼らは信仰理解においても、教役者に引けを取りませんでした。先ほど話した「平信徒」は英語で「laymanレイマン」と言いますが「専門家ではない素人」という意味もあります。でもプリスキラとアクラは決して素人などではありませんでした。彼らは「雄弁なアポロが、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった(25)」ことに気付きました。すなわち聖霊理解が不十分であったのです。その時、彼らはどうしたでしょうか。「プリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した(26)」。私はここに感動します。公衆の面前でアポロを非難することなく、陰口を言って駆けだしの献身者をつぶしてしまうことなく、家に招いてそっと諭(さと)したのです。彼らは博学なアポロを納得させるに十分な知識と説得力を持っていました。しかしそれだけでなく、彼らは、教会と働き人への溢れる愛があったのです。(聞き入れたアポロも立派でした)。このように彼らは地道にパウロの働きを支え、彼がいなくなった後も、教会で重要な役割を果たし続けました。今も昔も、教会はこのように、献身的な信徒たちによって支えられているのです。 

後にパウロは手紙でこう書いています。「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです」(ロマ16:3-4)。彼らは最後まで、命がけで、パウロの宣教を支えました。更にこうともあります。「アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています」(Ⅰコリ16:19)。彼らはパウロを支えるだけでなく、自分たちの家を開放し「家の教会」のリーダーとなり、積極的に福音を宣べ伝えました。 

牧師と信徒との関係は、決して上下関係でも、従属関係でもありません。どちらかが倒れる時には、どちらかが支え、ともに手を取り合って福音を宣べ伝える「主にある同労者」なのです。 



「キリスト・イエスにあって
 私の同労者である
 プリスカとアクラによろしく伝えてください。
 この人たちは、
 自分のいのちの危険を冒して
 私のいのちを守ってくれたのです」
(ローマ16:3-4a)




2013年1月18日金曜日

その6「牧師の働き」 エペソ2章、4章

以前、このシリーズの第一回目に「この岩の上に」と題して、次のように語りました。「イエス・キリストこう話されました。『あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(マタイ16:18)』。でも、この『岩』とはいったい何のことでしょうか?それはその直前に記されているペテロの信仰告白のことです。彼は言いました『あなたこそ生ける神の御子キリスト(救い主)です(16:16)』。この『信仰』こそ、教会の土台なのです」。そこで今日は、この土台の上に、一体どのように教会を建て上げて行ったらよいのか、特に「牧師の働き」に注目して学びたいと思います。もちろん「信徒の働き」も学びます。それはまた次回のおたのしみ。

パウロは度々教会のことを建物に例えています。きっと彼が伝道者でありながら、天幕職人(皮や木で移動式住居を作る人)でもあったことから、それが身近なたとえだったのでしょう。その際彼はいつも土台がイエス・キリストであることを強調しています(Ⅰコリント3:11)。もう少し具体的に言えば、その土台とは、イエス様の語られた福音であり、イエス様の生きざま(人格と御業)であり、十字架と復活による罪の赦し(新生)の恵みのことです。このイエス・キリストと、彼を信じる信仰の上に、教会は建て上げられているのです。しかしエペソ2章20節にはこうともあります。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」。つまりイエス様が究極の土台(一番深いところにある礎石)であるとしながらも、「使徒と預言者」という土台の上に、教会が建て上げられているというのです。 

「使徒と預言者」とは何のことでしょう。私はなんとなく「使徒が新約聖書」で「預言者が旧約聖書」と思っていました。難しい説明は抜きにして、新約聖書とは「使徒的文章」であり、イエス様ご自身が旧約聖書のことを「預言者」と言われたことがあったからです(例 マタ22:40)。でも同じエペソ人への手紙の中にはしっかりと「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです(4:11)」と記(しる)されています。つまり「使徒と預言者」は、その時代の教会の中で、実際に、イエス様が救い主であることを宣べ伝え、救われた人がどのように生きて行けばよいのかを教えていた人たちのことだったのです。また教えられる人々は、彼らの語る言葉を「神の言葉」として受け入れ、その土台の上に教会を建て上げました。パウロ自身がこう書いています。「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです(Ⅰテサロニケ2:13 新共同訳)」。 

ところで私たちは「みことばの説き明かし」をどのように聞いているでしょうか?「○○先生のお話し」という具合に「人の言葉」として聞いていないでしょうか?「今日はおもしろかった」「今日の先生の服装は?」と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は「人の言葉」ではなく「神の言葉」として、聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません。牧師は牧師で「尊い神の言葉を取り次いでいる」という恐れをもって、よく準備し、祈り備えて、語らなければいけません。そうした土台がしっかりしている教会は「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮とされるのです(エペソ2:21-22)」。また「わたしたちは絶えず神に感謝しています」とある通り、解き明かしの栄光はすべて主のものです。説教者を過度に崇めるのは偶像礼拝です。 

それだけでも足りません。みことばを語ることしか強調しない牧師もありますが、牧師のもう一つの大切な働きは「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせること」です(4:12)。「させる」というと偉そうですが、御言葉によって聖徒を整え、賜物を見つけて、ふさわしい奉仕やミニストリーに用いることです。いってみれば、教会というチームの監督になり、個々を訓練し、教会全体を組織するのです。その際、監督は誰よりも謙遜でなければいけません(マコ10:43)。最近問題の体罰やパワハラなんてもってのほか。率先して、群れの模範となるべきです(Ⅰペテロ5:3)。 

牧師の大きな二つの働きは、「みことばを解き明かし」「聖徒を整えて用いること」です。あなたは牧師に期待すべきことを期待していますか?正しい期待が、お互いを大きく成長させます。



あなたがたは、
その割り当てられている人たちを支配するのではなく、
むしろ群れの模範となりなさい。
(Ⅰペテロ5章3節)