2013年2月27日水曜日

その12 「看取る(見送る)教会」 Ⅰテサロニケ4章 ヨハネ11章


前回は「家族としての教会」と題し、特に高齢者について学びました。「近年、高齢者虐待が深刻な社会問題となっています。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねる)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金の横取り)その他にも言葉による暴力などがあげられます。しかし聖書には、お年寄りについて、このように教えられています。『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)』。『年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1)』」。こういったクリスチャンの高い倫理性はどこからきているのでしょう。それは、人が「神のかたちに造られている(創世記1:27)」という人間理解から来ています。またそれは、教会の葬儀においても、見られます。

今日のテーマは「看取る(見送る)教会」です。家族としての教会は、人生のあらゆる場面を共有します。出産のように喜びの時もあれば、お葬式のように悲しみの時もあります。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」とありますが、私たちはそれらすべてにおいて、このことを実践するのです。今回は、その中でも、葬儀について学びたいと思います。よく「ゆりかごから墓場まで」と言われますが、教会は「ゆりかごから天国まで」です。ですから、単に「看取る」のではなく「見送る」としておきました。キリスト教葬儀には大きく三つの意味があります。①遺体の葬り(最後まで故人への愛と敬意を表す)②遺族への慰めの気持ちを表す ③信仰からくる希望を表す。それら一つ一つについて見て行きましょう。 

まずは遺体の葬りです。先日、その名も「遺体 ~明日への十日間~」という映画を観て来ました。題名からして、観るのを躊躇したのですが、看取る機会の多い者として、観なければいけない気がして足を運びました。そして観ている最中、ずっと涙が止まりませんでした…。2011年3月11日に起きた東北大震災からの10日間を追った映画(実話)です。学校の体育館が遺体安置所となり、おびただしい数の遺体が運ばれて来る。狂気に陥りそうな混乱の中で、精一杯の思いを込めて、遺体を弔(とむら)う人々の姿が描かれていました。遺体を丁寧に扱うことは、故人の尊厳を最後まで守ること。それは、遺族と誠心誠意向き合うことにもつながる。そんな事を教えられました。クリスチャンは遺体を粗末にするし、葬儀にもこだわらない、と誤解をしている人がいますが、決してそんなことはありません。クリスチャンこそ「神のかたちに造られた人」を、最後まで、その尊厳と威厳を損なわないよう、丁寧に、心を込めて、葬りの式を行うのです。 

続いて遺族への慰めです。葬儀は伝道集会ではありません。遺族の感情を無視して、一方的に福音を語っても、悲しみにくれる遺族の心に届くでしょうか。そのような配慮のなさは、むしろ未信者にとって躓きとなります。イエス様はラザロの死に際して「涙を流され」ました(ヨハネ11:35)。大事なのは「泣く者と一緒に泣くこと」です。テクニックではありません。遺族の心に寄り添うことによって、哀悼の意を伝えるのです。同時にクリスチャンは「望みのない人々のように悲しみに沈まない」事も大切です(Ⅰテサロニケ4:13)。不自然に「ハレルヤ」と明るくする必要もありませんが、悲しみに沈み過ぎず、主にある復活の希望を証しすることも忘れてはいけません(4:18)。 

最後に信仰からくる希望の表明です。残された者が、果たすべき使命(大仕事)がここにあります。それは涙を流すことだけではなく、故人が残した信仰をしっかり神と人との前で証しすることです。単に思い出を語るだけではなく、故人が何に希望を置き、何に感動して生きて来たかを、故人に代わって証し続けるのです。そのことが悲しみに沈む遺族に対して「私のために悲しまないでください」という最良の慰めにもなるのです。だから、生きている時から自分の証しをまとめ、牧師に渡しておくことは大切です。聖書にもこうあります。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。やがて訪れる死に対して、今から出来る備えがある。それこそが「証しの準備」なのです。 

あなたは自分の人生を通して伝えたいメッセージを持っていますか? またそのメッセージに、実際に生きていますか? 葬儀は、あなたがどのように生きて来たかの集大成なのです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。これは御国での再会の希望であるとともに、信仰に生きた人の希望が、残される者の心の中で生き続けことでもあります。 



イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネ11章25節


眠った人々のことについては、
兄弟たち、あなたがたに
知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように
悲しみに沈むことのないためです。
Ⅰテサロニケ4章13節