いまさらながら教会って何でしょう?ある人々はこう言います。「聖書には『ふたりでも三人でも、わたし(イエス様)の名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)』と書いてある。だから、どこでもクリスチャンが、二人以上集まるなら、そこが『教会』なんだ」。そして実際にスモールグループそのものが教会だと主張し、思い思いの「教会」生活を送っているのです。そのような状態を「教会観がない」と言います。実は、そのような混乱は今に始まったことではありません。宗教改革が起こった時、ルター率いるプロテスタント教会は、カトリック教会という大きな傘(制度、組織)のもとを出ました。そして制度と儀式でガンジガラメになった教会を改革し「神の言葉があるところに信仰があり、信仰があるところに神の教会がある」と、「信仰」と「神の言葉」を土台とする本来の教会の姿を回復したのです。しかし、それを極端に解釈する人々が現れました。「急進派(ルターいわく熱狂主義者)」と呼ばれる人々は、御言葉さえ語られていれば「それが教会だ」と主張し、思い思いに教会を作り、絶え間ない分裂と対立という混乱を招いてしまったのです。それはルターが本来意図したことではありませんでした。
そこにジャン・カルバンがあらわれ、もう一度、教会というものを次のように定義しました。「教会とは①神の言葉が説教されているところであり、②サクラメント(洗礼式と聖餐式という聖礼典)が正しく施行(しこう)されているところです」。この定義には、それを支える「教会の制度(教会政治)」の理解も含まれています。教会は、制度や組織ではありませんが、秩序は存在します。パウロもこう書いています。「ただ、全てのことを適切に、秩序をもって行いなさい。(Ⅰコリント14:40)」つまりカルバンは、無秩序な教会形成をするのではなくプロセス(秩序)を大事にしなさいといっているのです。少しややこしいですが、私たちの教会で言うとこういうことです。地域教会の「会衆」によって「教会役員」が選ばれます。その教会役員の代表が「教団総会」に出席し、その教団総会において「教団役員会」が選ばれます。地域教会の牧師は①「牧師本人」の召しを尊重し②「教会役員会」によって招聘され③「教団役員会」が任職します。これを「三者合議」といいます。このようにして立てられた牧師を通して「聖礼典」と「御言葉の説教」がなされるのです。先にも言ったように「ややこしい」です。しかしこのようなプロセスを経て「権力の偏り」や「教理的誤り」、「教会のカルト化」を防ぎ、健全な「地域教会」を建て上げているのです。
それとは別に、不可視的教会という概念があります。不可視的とは、目には見えない、という意味です。つまり「現在、過去、未来、すべての聖徒からなる、完全にして、霊的な教会のこと」です。「公同(こうどう)の教会」ともいいます。使徒信条の中で「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会」といいますが、そのことです。この公同の教会は、キリストの再臨の時に完成します。エペソ人への手紙に「(イエス様が終わりの日に)しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(5:27)」とある通りです。しかし地上の教会は、完全ではありません。完璧な制度(教会政治)もありません。上記のように、完全である努力はしていますが、多くの問題もあります。イエス様の「毒麦のたとえ話(マタイ13章)」はそのことを言っています。時には本当に救われているのか、首をかしげたくなることもあるのかもしれません。でもイエス様はこう言われます。「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。(30)」毒麦を抜くことは私たちの仕事ではありません。私たちの目の方が曇っていて、その人は、本当は正しいことを言っているのかもしれません。また悪意があったとしても、神様はその人の悪意さえも用いて、ご自分の目的を達成することができるお方です(箴言16:4)。毒麦は御使いに任せましょう(41)。私たちの仕事は、時が良くても悪くても、福音の種を撒き、愛する兄弟姉妹とともに、この地上にキリストのからだなる教会を建て上げていくことなのです。
公同の教会の一員として、天の完全な交わりを夢見ながら、地上の教会に仕えて行きましょう。
だが、主人は言った。
「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、
麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、
両方とも育つままにしておきなさい。」
マタイ13章29-30節(要約)
キリストが教会を愛し、
ご自身をささげられたのは、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、
ご自分の前に立たせるためです。
エペソ5章25-27節(要約)