パウロは度々教会のことを建物に例えています。きっと彼が伝道者でありながら、天幕職人(皮や木で移動式住居を作る人)でもあったことから、それが身近なたとえだったのでしょう。その際彼はいつも土台がイエス・キリストであることを強調しています(Ⅰコリント3:11)。もう少し具体的に言えば、その土台とは、イエス様の語られた福音であり、イエス様の生きざま(人格と御業)であり、十字架と復活による罪の赦し(新生)の恵みのことです。このイエス・キリストと、彼を信じる信仰の上に、教会は建て上げられているのです。しかしエペソ2章20節にはこうともあります。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」。つまりイエス様が究極の土台(一番深いところにある礎石)であるとしながらも、「使徒と預言者」という土台の上に、教会が建て上げられているというのです。
「使徒と預言者」とは何のことでしょう。私はなんとなく「使徒が新約聖書」で「預言者が旧約聖書」と思っていました。難しい説明は抜きにして、新約聖書とは「使徒的文章」であり、イエス様ご自身が旧約聖書のことを「預言者」と言われたことがあったからです(例 マタ22:40)。でも同じエペソ人への手紙の中にはしっかりと「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです(4:11)」と記(しる)されています。つまり「使徒と預言者」は、その時代の教会の中で、実際に、イエス様が救い主であることを宣べ伝え、救われた人がどのように生きて行けばよいのかを教えていた人たちのことだったのです。また教えられる人々は、彼らの語る言葉を「神の言葉」として受け入れ、その土台の上に教会を建て上げました。パウロ自身がこう書いています。「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです(Ⅰテサロニケ2:13 新共同訳)」。
ところで私たちは「みことばの説き明かし」をどのように聞いているでしょうか?「○○先生のお話し」という具合に「人の言葉」として聞いていないでしょうか?「今日はおもしろかった」「今日の先生の服装は?」と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は「人の言葉」ではなく「神の言葉」として、聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません。牧師は牧師で「尊い神の言葉を取り次いでいる」という恐れをもって、よく準備し、祈り備えて、語らなければいけません。そうした土台がしっかりしている教会は「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮とされるのです(エペソ2:21-22)」。また「わたしたちは絶えず神に感謝しています」とある通り、解き明かしの栄光はすべて主のものです。説教者を過度に崇めるのは偶像礼拝です。
それだけでも足りません。みことばを語ることしか強調しない牧師もありますが、牧師のもう一つの大切な働きは「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせること」です(4:12)。「させる」というと偉そうですが、御言葉によって聖徒を整え、賜物を見つけて、ふさわしい奉仕やミニストリーに用いることです。いってみれば、教会というチームの監督になり、個々を訓練し、教会全体を組織するのです。その際、監督は誰よりも謙遜でなければいけません(マコ10:43)。最近問題の体罰やパワハラなんてもってのほか。率先して、群れの模範となるべきです(Ⅰペテロ5:3)。
牧師の大きな二つの働きは、「みことばを解き明かし」「聖徒を整えて用いること」です。あなたは牧師に期待すべきことを期待していますか?正しい期待が、お互いを大きく成長させます。
あなたがたは、
あなたがたは、
その割り当てられている人たちを支配するのではなく、
むしろ群れの模範となりなさい。
むしろ群れの模範となりなさい。