2013年4月17日水曜日

その16 「礼拝する教会」 使徒20章5-12節 コロサイ2章20-23節


前回は「学ぶ教会」と題して学びました。しかし聖書にはこうあります。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます(Ⅰコリント8:1)」また「文字は殺し、御霊は生かす(Ⅱコリント3:6)」とも。このように間違った学びはかえって「有害」となります。しかし本当の学びは、まず「聞くこと」に始まると教えられました。それはもちろん、まず御言葉に聞くことであり、同時に、御言葉を解き明かす教師からも、教えられやすい心を持つことでもあります。このように、真の学びは、神と人に対する謙遜につながるのです。もとより、日本語の「学ぶ」には「師をまねる、まねぶ」から来ているとも言われます。同じようなことが、今日のテーマ「礼拝」にも言えます。

初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らは「週の初めの日(日曜日)」に礼拝を持っていたことが分かります。それはイエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで、日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は、早朝や夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会と聖餐式を持ち、賛美をし、教えに耳を傾けていました。パウロがトロアスを訪ねた時も、既に救われていた人々がパンを裂くために集まって来ました。その中にユテコという青年もいました。彼は仕事を終えてから、やっとの思いで駆けつけたのかもしれません。しかしパウロの話しがあまりにも長く続くので、ウトウトしてしまい、なんと三階の窓から下に落ちてしまいました。衝撃の「居眠り落下事件」です!しかしパウロは彼を抱きかかえてこう言います「心配することはない。まだいのちがあります」。そして生き返った彼とともに朝まで集会を続け、青年ユテコを家まで送り届け、慰められて別れるのです。この出来事はひとつの象徴です。それは礼拝に集う人々が経験していた、魂の再生(よみがえり)です。「屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった(20:8)」とありますが、礼拝を捧げる彼らの存在は、いのちの灯台として、この町を明るく照らしていたでしょう。

しかし人間はこの礼拝を好き勝手に変えてしまいます。コリント教会では、前回も話しましたが、礼拝がまるで「賜物発表会」のようになり「みんな私の賜物見て~」と言わんばかりに騒々しくガチャガチャになってしまいました。他方、コロサイ教会では、礼拝がやたらに儀式的でガチガチになり、自由がなく、イエス様ではなく天使を礼拝する異端(神秘主義)に陥ってしまいました。パウロはそのような礼拝を「人間の好き勝手な礼拝(コロサイ2:23)」と呼んでいます。人間の好き勝手にすると、やたら賑やかになったり、やたら伝統的で堅苦しくなったり、または、聖書の教えから外れてしまったりするのです。聖書はこう教えています。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです(ヨハネ4:23)」。「霊」とは聖霊のこと、「まこと」とは真理の御言葉のこと。聖霊の働かれるところには「自由」があります。しかし真の礼拝には、自由とともに、しっかりとした御言葉の説き明かしがあるのです。この両者のバランスが大切です。

私たちはイエス様ご自身から招かれています。イエス様はこう語られています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます(マタイ11:28-29)」。つまり真の礼拝とは、このイエス様の招きに応え、疲れた心を癒され、復活のいのちに満たされ、新しい一週間を始める時なのです。そして「一方的な恵み」を受けながら、少しずつ礼拝を、「捧げる者」へと成長させられていくのです。礼拝は本来、受けるものではなく、捧げるものです。何をささげるのか?私たちの心からの祈りと賛美、そして「私たち自身」です。それに加え「わたしから学びなさい(注2)」と言われているように、御言葉を聞いたら、自らを打ちたたいて、その御言葉に従わせていくことも大切です(Ⅰコリント9:27)。こうした礼拝を捧げる時、私たちの顔は礼拝堂に入る前と後とで違っています。なぜなら御言葉と御霊によって、新しく創り変えられるからです。

あなたは礼拝において、こういった「復活のいのち」を経験していますか?



彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(Ⅰサムエル1:18)

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34:5)






注1:ルカはユダヤ人のように日没から日没までを一日として数える仕方ではなく、ローマ人のように夜半から夜半までを一日として数える仕方をしている。なぜならこれはトロアスでの出来事だからである。つまりユテコの参加していた礼拝は、今日の「日曜の夜」のことを指している(F.F.ブルース)。

注2:「学びなさい(マセテ)」は、単に知的に学ぶという意味ではなく、模範から学びなさいという意味(BAG)。つまりイエス・キリストの人格(愛と義)に「まねぶ」ということ。