近年「高齢者虐待」が隠れた大問題となっています。こどもへの虐待ほどニュースになりませんが、その潜在的な件数はかなりになると見られます。大きくは、家庭内と施設内で起こるケースとに分けられます。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねるなど)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金・財産を不正に横取りする)その他にも言葉による暴力などがあげられます。聖書には、たとえ誰も見ていなくて、本人さえ気づかなくても、盲人や難聴者に対して不条理な扱いをすることを厳しく戒めています。「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である(レビ19:14)」。同様に、弱くなっても、認知症が進んでも、老人に対して、神を恐れ、キリストに対するように接しなければいけないと聖書には教えられています。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)」。これは、現代の日本においても大切なおしえではないでしょうか。
パウロは牧会書簡の中で、若い伝道者テモテに「年寄りを叱ってはいけません。むしろ父親に対するように勧めなさい(Ⅰテモテ5:1)」と教えています。このことについて加藤常昭師はこう教えています。「私ども人間が年をとると、ますます円満になり、問題の少ない人間になるかというと、そうはいきません。若い時は若い時なりに問題があり、壮年期には壮年期の問題があり、年老いれば、それなりの悩みと苦しみが出てまいります。肉体の力が衰えるだけではなく、心の力も衰え、つまらない間違いをするようになります。自分で自分の心をコントロールすることができなくなり、かえって裸の欲望に振り回されて生きてしまうようなことが起こります。『またそんな事をやっちゃって!』と叱られるようなことをしてしまうことを、聖書は否定していません。でもその時は『叱ってはいけない』『父親に対するように勧めなさい』と教えられているのです。『勧める』とは『丁寧な言葉で気づかせる』ことです。若くても年老いても罪は犯します。やはり教会ですから、罪をうやむやにはせず、気づかせることは大切です。でもこの『勧める』というギリシャ語には『慰める』という意味も含まれています。老人が罪を犯す時、一番うろたえているのは老人本人です。ですから叱りつけるのではなく、『慰め、丁寧に諭すこと』が牧師の務めなのです(本文要約)」。教会が、愛と尊敬とを持って、お年寄りに接することが大切なのです。
でもお年寄りには「一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とも勧めたいと思います。教会は、お年寄りだけの居場所ではありませんし、若者だけが、お年寄りに気を使わなければいけないわけではありません。聖書には「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とあります。直接には、人の上に立つ人々のことですが、家父長制度や年功序列といった傾向の強いユダヤの社会では、年長者に対する教えとそて理解しても良いでしょう。どうですか、あなたは見慣れない若者たちが、我がもの顔で教会を闊歩(かっぽ)し、なじみのないメロディーで賛美していても、それを喜ぶことができますか?小さな赤ちゃんが、慣れ親しんだ静かな礼拝で声を出してしまうとき、(もちろん限度はありますが)その幼い魂を心から受け入れることができますか?聖書には「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです(マタイ18:5)」と教えられています。
大切なのは、それぞれの世代が、自分の権利を主張することではありません。むしろ互いに、認め合い、配慮し合い、仕え合う姿勢が「家族としての教会」には必要なのです。若者たちは、今まで教会を支えてこられた先輩方を尊敬し、大切にすべきです。同時にお年寄りたちは、これからの教会を担って行く若者たちを励まし、受け入れるべきです。私たちは愛において一つです。
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
でもお年寄りには「一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とも勧めたいと思います。教会は、お年寄りだけの居場所ではありませんし、若者だけが、お年寄りに気を使わなければいけないわけではありません。聖書には「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とあります。直接には、人の上に立つ人々のことですが、家父長制度や年功序列といった傾向の強いユダヤの社会では、年長者に対する教えとそて理解しても良いでしょう。どうですか、あなたは見慣れない若者たちが、我がもの顔で教会を闊歩(かっぽ)し、なじみのないメロディーで賛美していても、それを喜ぶことができますか?小さな赤ちゃんが、慣れ親しんだ静かな礼拝で声を出してしまうとき、(もちろん限度はありますが)その幼い魂を心から受け入れることができますか?聖書には「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです(マタイ18:5)」と教えられています。
大切なのは、それぞれの世代が、自分の権利を主張することではありません。むしろ互いに、認め合い、配慮し合い、仕え合う姿勢が「家族としての教会」には必要なのです。若者たちは、今まで教会を支えてこられた先輩方を尊敬し、大切にすべきです。同時にお年寄りたちは、これからの教会を担って行く若者たちを励まし、受け入れるべきです。私たちは愛において一つです。
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
レビ19章32節
年寄りをしかってはいけません。
年寄りをしかってはいけません。
むしろ、父親に対するように勧めなさい。
Ⅰテモテ5章1節
あなたがたの間で一番偉い人は
あなたがたの間で一番偉い人は
一番年の若い者のようになりなさい。
ルカ22章26節