2012年12月13日木曜日

その5「宣教に生きる教会」 マタイ28章、Ⅰテモテ2章

前回、私たちは「バプテスマ・洗礼」について、次のように学びました。「つまり洗礼とは、完全に水に浸ることにより、キリストが十字架で死なれたように古い自分に死に(墓に葬られ)、水からザバーッと上がることにより、キリストが墓からよみがえられたように、新しいいのちに歩む者へと変えられること意味しています。また洗礼を受けることは、神の子とされ、神の国の民の一員となること、この地上では教会の一員になることも表しています」。その教会は、新約聖書において、すでに学んだ通り「キリストのからだ」とも呼ばれています。そのからだは何のために存在しているのでしょうか?その使命について、今日は一緒に学んでいきたいと思います。 

教会には色々な働きがあります。私たちの教会(岐阜キリスト教会)を見ても、たくさんの働きがあります。たとえば、礼拝、愛餐会、聖歌隊、聖書研究会、日曜学校、ジュニアユース、男性の会、女性の会、オリーブの会、学生会、スモールグループ、ゴスペル、ママズカフェ、ノーバディーズパーフェクト など。その他にも、教会によっては、幼稚園や老人ホームを経営していたり、社会福祉に関するNPO法人を立ち上げている教会もあります。しかし、その中で、本当に教会にしかできない働きは何でしょうか?教会がまず力を注ぐべき働きは何でしょうか?イエス様は、このように教えられました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい(マタイ28:19-20)」。その他の働きがいけないのではありません、しかし「何のために」という目的を見失ってはいけないのです。 

神様の究極の目的は、すべての人が救われることです(Ⅰテモテ2:4)。使徒の働きにも、施(ほどこ)しを求める男の話しが登場します。ペテロとヨハネが彼の前を通り過ぎるとき、彼は何かもらえると思って二人を見ました。しかしペテロは彼に言いました。「金銀は我にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい(3:6)」。今日でも、教会に慈善を求める人はたくさんいます。しかし物理的にも経済的にも、教会がすべての人の必要を満たすことはとても難しいです。また、それが本当に教会の使命なのかどうか、もう一度よく考えてみなければならないでしょう。教会の使命は物質を与えることではなく、福音(イエス・キリスト)を宣べ伝え、人々が新しい歩みを始めるのを助けることです。慈善も大切ですが、この目的を忘れてしまう時、教会は教会ではなくなってしまうのです。それは御心ではありません。 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい(Ⅱテモテ4:2)。つまり、これが教会の第一の使命なのです。こういうと「わたしは伝道が苦手で…」と後ろめたい気持ちになる人もあるかもしれません。しかし、もう一度マタイ福音書を注意深く読むと、そこにはこうあります。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(28:19)」。注目すべきは「あなた」ではなく「あなたがた」とあることです。つまり伝道とは、あなた個人ではなく、あなたも含めた、信徒の群れである「教会」に与えられた使命なのです。キリストの体(肉体)は天に挙げられましたが、「キリストのからだである教会」は、この地にあって、みんなの賜物を活かしながら、御言葉を宣べ伝えているのです。もしあなたの賜物が掃除や愛餐会での奉仕なら、それに心を注ぐことにより、あなたは宣教に参加しているのです!また伝道とは、福音を口先で伝え、何人救われた、と数えるようなものではありません。その人が実際に洗礼を受け、御言葉と教会に根差した弟子となるまでしっかりかかわること、それが本当の伝道なのです。 

また、正しい政治が行われるように祈ることも大切です。聖書にはこうあります。「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです(Ⅰテモテ2:1-2)」。政治の行方によって、私たちの生活、とりわけ信仰生活は大きく左右されます。日本ではそんなことないと思いますか?衆院選前ですが、特に信教の自由に関する「改憲」に関する公約をよく見ながら、投票することもクリスチャンとしての大切な責任です。 

教会の大きな二つの使命、それは「福音を宣べ伝え」「為政者のために祈ること」です。極端になってはいけません。第一は福音を宣べ伝えること、しかし政治に関心を持つことも大切です。 



もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、
それはわたしの誇りにはなりません。
そうせずにはいられないことだからです。
福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
(Ⅰコリント9章16節 新共同訳)



そこで、まず初めに、このことを勧めます。 
すべての人のために、
また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、
祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

それは、私たちが敬虔に、
また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、
喜ばれることなのです。

神は、すべての人が救われて、
真理を知るようになるのを望んでおられます。
(Ⅰテモテ2章1-4節)





2012年12月6日木曜日

その4 「洗礼・バプテスマ」 マタイ3章、使徒2章

前回、私たちは「この恵みの上に」と題して、次のように学びました。「私たちの感情は、騒ぎます、ぶれます、時には信じてきたことが全部ウソだったような気分にとらわれることもあるかもしれません。しかしそれでも『イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださり、私たちを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるのです』この『一方的な恵み』に変わりはありません!信仰とは、私たちの感情ではなく、この恵みの上に踏みとどまることなのです」。この恵みは目には見えません。神様も信仰も目には見えません。しかし神様は、この恵みを、私たちの目にも見えるかたちで、刻みつけるために、恵みの手段としての「洗礼」と「聖餐」を定められました。今日は、その「洗礼」について学びたいと思います。 

洗礼式の方法には大きく三つあります。その前に言葉の説明から。洗礼のことを教会では「バプテスマ」とも言います。これは「バプティゾー」というギリシャ語からきていて、その意味は「浸(ひた)す」です。その通り、最も一般的な方法は、全身をザブンと水に浸すやり方です。場所は、川や、教会の洗礼槽(そう)など様々ですが、共通しているのは、つま先から頭のてっぺんまで、完全に水に浸すことです。これが聖書に見られる、イエス様も受けられた洗礼のスタイルです。このスタイルを「浸礼(しんれい)」と言います。その他にも、牧師や司祭が指先を水に浸して受洗者の頭の上にチョンチョンと垂らす「滴礼(てきれい)」や、ポットや手のひらに水を汲んで頭のてっぺんに注ぐ「灌水礼(かんすいれい)」といったものもあります。大切なのは、頭のてっぺんから注ぐ(垂らす)ことです。それによって全身を水に浸した、としているのです。 

実は、イエス様が現れる以前にも、洗礼は行われていました。聖書には「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り…(マタイ23:25)」とありますが、驚くべきことに、ユダヤ人たちはかなり積極的に海外宣教をしていました。そしてユダヤ人以外の異邦人がユダヤ教に改宗する際には、洗礼と割礼を授けることにより、ユダヤ人と同様だと認めていたのです(女性は洗礼のみ)。バプテスマのヨハネはその洗礼を、ユダヤ人たちにも適用しました。ユダヤ人は選民意識を持っていましたが、そのユダヤ人であっても「自分の罪を悔い改めてバプテスマを受けなければ、天の御国の一員とはなれない(マタイ3:1意訳)」と教えたのです。イエス様は更に一歩進めてこう教えられました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません(ヨハネ3:5)」。このイエス様の十字架と復活によって洗礼の意味は、ついに完成しました。 

イエス様によって完成された洗礼の意味は次の通りです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです(ローマ6:4)」。つまり洗礼とは、完全に水に浸ることにより、キリストが十字架で死なれたように古い自分に死に(墓に葬られ)、水からザバーッと上がることにより、キリストが墓からよみがえられたように、新しいいのちに歩む者へと変えられること意味しています。それが「御霊によって生まれ変わる」ことです。洗礼により私たちは、心の中で起こった恵みの御業を、目に見える形に現し、からだ全体で確かめ、心に刻みつけるのです。また洗礼を受けることは、神の子とされ、神の国の民の一員となること、またこの地上では教会の一員になることも表しています。 

でも一体どのタイミングで、洗礼を受けたらよいのでしょうか?ペテロはこう言います。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう(使徒2:38)」。その直前にはこうあります「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです(2:36)」。つまりイエス様の十字架が、自分の罪の赦しのためであったことが分かり、悔い改め、イエス様に方向転換をして新しいいのちに歩む決心した時が「その時」なのです。 

水はただの水です。でも信仰を持ってくぐる時キリストの十字架の復活が我が身の現実となるのです。何度も受ける必要はありません。恵みを胸に、最後まで忠実であることが大切なのです。



そのとき、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた。
(マタイ3:17新共同訳)