意外かもしれませんが、旧約聖書のヨナ書から「世界宣教」について教えられたいと思います。ヨナはある時、神様からこの命じられます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ(2)。」つまり神のさばきを宣告し、悔い改めを呼び掛けよ、というわけです。しかし彼はその命令に激しく抵抗します。「ヨナは、主の御顔を避けてタルシュシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った(3)。」タルシュシュとはイザヤ書に「わたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない(66:19)」と言われている、いわば「地の果て」です。そこまで逃げて行きたいほど、ヨナにとってニネベ行きは考えられないことだったのです。なぜでしょう?それはニネベがアッシリヤという国の首都であったからです。アッシリヤは常にイスラエルを脅かし、後に北イスラエル王国を滅ぼすことになる、言わば「敵国」です。そんな国のため働きたくないというのは、ある意味当然の反応なのかもしれません。しかし彼はその結果、魚に飲み込まれ、三日三晩ただよい、苦しみもだえながら悔い改めへと導かれるのでした(2章)。そしてニネベに行って、主のことばを宣べ伝えました(3章)。
その結果、ニネベの町は悔い改め、救われました。ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせました。彼は怒ってこう祈りました。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから(4:3)。」そして諦められず、なおも、今か今かと「さばき」を待ち続けていたのです(5)。神様はそんなヨナの頭上にトウゴマ生えさせ、その葉によって日陰を与えられました。しかし喜びも束の間、翌日の夜明け前に、その葉は虫に食われて枯れてしまったのです。そこで彼はまたもやこう言います。「生きているより死んだ方がましだ(8)」。主はこの一連の出来事を通して、彼に「一方的な主の恵み」を教えようとされているのです。主はこう仰せられました。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか(10-11)。」つまりヨナは自分も主に背き、一方的な恵みによって、赦され、生かされた者として、どうして同じように他の罪人が赦され、生かされることを喜べないのか」と問われているのです。
主は私たちにも「ニネベに行きなさい」と命じています。それは右も左もわきまえず、神に背いて生きている人々のことかもしれません。神様は私たちクリスチャンと同じくらい、未信者の事も愛しておられます。「自分たちだけの神様」だと思ってはなりません。神様は全ての人の主です!またあなたにとってのニネベは、文字通りの外国かもしれません。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)。」これはお勧めではなく、大宣教「命令」です。あなたは言うかもしれません。「いいえ、行きたくありません。大宣教命令は私個人ではなく『教会』に与えられている命令ではありませんか。」確かにその通りです。でももしそうなら、あなたは祈りによって、経済的にも、教会の海外宣教を支えていますか?またある方は「日本にはクリスチャンが1%もいないのにどうして外国ですか」と思うかもしれません。でも大宣教命令が与えられた時、イスラエルに1%のクリスチャンがいたでしょうか?あなたがこの命令に従わない理由は何でしょう。ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが、自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのであれば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。神様は、彼らのことも愛し、あなたと一緒に彼らにも恵みと祝福を届けたいと願っておられるのです。
あなたのニネベはどこですか?
あなたのニネベはどこですか?
無関心を超えて、海外宣教のためにも祈るクリスチャンになろう。
「これで私は、はっきりわかりました。
神はかたよったことをなさらず、
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、
正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。