「やもめの中でも本当のやもめを敬いなさい(3)」。これが「年寄りを叱ってはいけない」の続きです。聖書には、やもめを大切にするようにとの教えが溢れています。旧約聖書では「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる(出エジプト22:22-23)」。新約聖書でも「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです(ヤコブ1:26-27)」とあります。「やもめ」と「みなしご(孤児)」は、しばしばセットで語られています。それは当時の社会の中で、どちらも一人では生きていけない、弱くて、助けの必要な人たちだったからです。神様の愛を信じる者は、弱い人をも愛するように教えられているのです。
でも、わざわざ「本当のやもめ」とあるのはなぜでしょうか?きっと当時の教会の中では教会の善意に甘えて、しまりのない生活をしている人が少なからずいたのでしょう。聖書にはそのことが厳しく指摘されています。「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです(6)」「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します(13)」。ですから当時の教会は下記のような基準を定めました。「もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます(16)」。つまり「身内のお世話は自分たちで」という原則です。当たり前のようですが、そうではない現実があります。クリスチャンではあっても、自分の親の世話を、近くの教会にお願いし、自分は遠くの教会で安らかに信仰生活を送っている場合があります。決して悪気はないと思いますが、聖書ははっきりと「そのような人の宗教(信仰)は虚しいのです(ヤコブ1:26)」とあります。一人一人「教会に負担をかけないように」との配慮を忘れてはいけません。
教会を「サービスを受けるところ」と思ってはいけません。加藤常昭師はこう指摘します。「やもめだけではありません。私たちはうっかりすると、教会を、つらい人間、悲しい人間に、慰めのサービスをしてくれるところと考えてしまうことがあります。最初はそうでも、福音を聞き、洗礼を受け、生まれ変わると考え方が変わります。もし変わらないと、あちこちの教会に行って、どこの教会のサービスが良いか、どこの牧師が親切で、どこの牧師が不愛想とか、まるで商店のサービスを比べるように論評したりするようになります。教会に長く来ている方の中にも、そういう教会生活をしている方達がいないわけではありません。そういう方たちに限り(思い通りのサービスが受けられないと)『教会に躓いた』と言います。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働きます。自分の寂しさや悲しみを乗り越えて、奉仕し、困っている人を助けることを喜びとするのです。そう生きてきた人は、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きることができるようになります。それこそが『本当のやもめ』なのです(本文要約)」。
聖書には、そのようなやもめがたくさん登場します。レプタ銅貨二枚を捧げたやもめがいました。それは本当に僅かな捧げものでしたが、イエス様は彼女に目をとめ「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん捧げました(マルコ12:43)」と褒められました。また救い主を待ち望み、祈りと断食をもって神に仕えていたアンナも、神の目にとまり、幼子イエスに会うことが許されました。彼女たちは「生きてはいても、もう死んだ者」ではなく、本当の意味で最後まで生き抜いたのです!
「誰も自分に何もしてくれない」と嘆くより、神と人とのために出来ることを喜ぶ人でありたい。たとえそれが、どんな小さなことであったとしても。もし何もできなくても、誰かのために祈れることを喜びたい。そんな生き方を全うしたい。
ほんとうのやもめで、
ほんとうのやもめで、
身寄りのない人は、望みを神に置いて、
昼も夜も絶えず神に
昼も夜も絶えず神に
願いと祈りをささげています。
Ⅰテモテ5章5節