2013年3月14日木曜日

その14 「話し合う教会」 マルコ8-9章、使徒6,15章

前回は「やもめと教会」について学びました。その中で私たちはこう学びました。「うっかりすると、私たちは教会を、辛い人間に、慰めのサービスをするところと考えてしまいます。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働き、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きるのです。これこそ聖書で言うところの『本当のやもめ』なのです」。聖書には、この「やめもたちに関する議論」が登場します。毎日の配給に対する不平不満から生まれた議論です(使徒6:1-6)。どの教会にも問題はあります。大切なのはそれをどう解決していくかです。今日のテーマは「話し合う教会」です。 

はじめに「議論好き」は深刻な「病気」です。マルコ8章と9章を見ると、実に様々な「議論」や「論争」が登場します。「相手を陥れるために、議論を吹っ掛けてみたり (8:11)」「相手に責任をなすりつけて、お前が悪いと言い張ってみたり(16)」「『できなかった』理由を並べて、自分の失敗をなんとか正当化しようとしたり(9:14)」「自分の方が偉いと、言葉の多さや、声の大きさで、相手を威圧してみたり(34)」。気をつけなさい!議論に勝っても、決してあなたは幸せにはなれません。「議論に勝って、人の心を失う」と言いますが、勝てば勝つほど、あなたは、むしろ孤立していくでしょう。そうすると、ますますエスカレートし、時には信仰(御言葉)さえも持ち出し、自分を正当化し、相手を悪者にし、攻撃するのです。すると、あなたはますます孤立していくでしょう。まさに悪循環です。議論で相手を変えることはできません。心に残るのは「うらみ」と「敵意」だけです。聖書にはこうあります。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ…絶え間のない紛争が生じるのです(Ⅰテモテ6:4-5)。 

でも「話し合い」は大切です。成熟した共同体は、話し合いで問題を解決します。生まれたばかりの教会は、イスカリオテ・ユダの欠けを補うために「くじ」でマッテヤを選びました(使徒1:26)。しかし「やもめに関する議論」の際、弟子たちは「あなた方の中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人を7人選びなさい(使徒6:3)」と言いました。つまり「自分たちでよく祈って、みことばに照らし合わせ、話し合って解決しなさい」といったのです。もっと大きな問題になれば教会代表者たちによる話し合いが行われます。使徒15章に、異邦人が救われた際、彼らに割礼をほどこすべきか否かという、ユダヤ人にとっては避けては通れない難題にぶちあたりました。その際、彼らはどうしたでしょう?「鶴の一声」ならぬ「有力者の一声」で決めたでしょうか?いいえ、教会の代表者たちが集まり、会議を開き、激しく本音でぶつかり合いながら、答えを導きだしていったのです。これが有名な「エルサレム会議」です。よく「会議は不信仰だ」という人がいますが、そんなことはありません。そこに信仰があれば、会議は素晴らしいのです。 

では「議論」と「話し合い」はどこが違うのでしょうか。基本的に良い会議には、互いに対する「尊敬」があります。聖書にもこうあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」。自己中心な議論は、自分のことしか考えていません。いかに、相手を攻撃し、黙らせ、打ち負かそうか、とばかり考えています。そして、自分の方が正しくて、賢くて、上に立っていることを、見せつけようとするのです。そこから生まれるのは、絶え間ない「争い」と「破壊」と「分裂」です。しかし、御霊に満ちあふれたクリスチャンには「相手の意見からも教えられたい」「みんなで主に示されたことを持ち寄って、より完全なキリストのからだを建て上げていきたい」という、神様と教会、そして兄弟姉妹に対する愛があるのです。なぜなら、そこには「イエス様はその人のためにも十字架にかかられた。その人の中にも主の御霊が宿っておられる」という敬意があるからです。でも残念なことに、教会での話し合いも「肉の議論」となってしまうことがあります。そうならないためにも、教会のリーダーを始め、一人一人が「御言葉と祈り」を中心に生きていなくてはなりません。御言葉も、読み方によっては凶器(きょうき)となります。「あの人、この人」ではなく、まず自分の心を吟味し、御前に悔い改めなさい。そこから「神の国」と「平和」が広がるのです。 

言葉には二種類あります。一つは「教会を建て上げることば」もう一つは「教会を破壊する言葉」です。 



これらのことを人々に思い出させなさい。
そして何の益にもならず、
聞いている人々を滅ぼすことになるような、
ことばについての論争などしないように、
神の御前できびしく命じなさい。
Ⅱテモテ2章14節




2013年3月7日木曜日

その13 「やもめと教会」 Ⅰテモテ5章

前回は「看取る(見送る)教会」と題して、この世での最後の大仕事「死」への備えについて学びました。特に、自分が、何に感動し、何に希望を置いて生きて来たのかを証しにまとめることは大切です。聖書にもこうあるからです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。でも、そもそも、なぜこのような話しになったのでしょうか?その始まりは「年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1」」のひとことでした。実はその言葉には続きがありました。今日はそれを学びましょう。

「やもめの中でも本当のやもめを敬いなさい(3)」。これが「年寄りを叱ってはいけない」の続きです。聖書には、やもめを大切にするようにとの教えが溢れています。旧約聖書では「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる(出エジプト22:22-23)」。新約聖書でも「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです(ヤコブ1:26-27)」とあります。「やもめ」と「みなしご(孤児)」は、しばしばセットで語られています。それは当時の社会の中で、どちらも一人では生きていけない、弱くて、助けの必要な人たちだったからです。神様の愛を信じる者は、弱い人をも愛するように教えられているのです。 

でも、わざわざ「本当のやもめ」とあるのはなぜでしょうか?きっと当時の教会の中では教会の善意に甘えて、しまりのない生活をしている人が少なからずいたのでしょう。聖書にはそのことが厳しく指摘されています。「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです(6)」「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します(13)」。ですから当時の教会は下記のような基準を定めました。「もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます(16)」。つまり「身内のお世話は自分たちで」という原則です。当たり前のようですが、そうではない現実があります。クリスチャンではあっても、自分の親の世話を、近くの教会にお願いし、自分は遠くの教会で安らかに信仰生活を送っている場合があります。決して悪気はないと思いますが、聖書ははっきりと「そのような人の宗教(信仰)は虚しいのです(ヤコブ1:26)」とあります。一人一人「教会に負担をかけないように」との配慮を忘れてはいけません。 

教会を「サービスを受けるところ」と思ってはいけません。加藤常昭師はこう指摘します。「やもめだけではありません。私たちはうっかりすると、教会を、つらい人間、悲しい人間に、慰めのサービスをしてくれるところと考えてしまうことがあります。最初はそうでも、福音を聞き、洗礼を受け、生まれ変わると考え方が変わります。もし変わらないと、あちこちの教会に行って、どこの教会のサービスが良いか、どこの牧師が親切で、どこの牧師が不愛想とか、まるで商店のサービスを比べるように論評したりするようになります。教会に長く来ている方の中にも、そういう教会生活をしている方達がいないわけではありません。そういう方たちに限り(思い通りのサービスが受けられないと)『教会に躓いた』と言います。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働きます。自分の寂しさや悲しみを乗り越えて、奉仕し、困っている人を助けることを喜びとするのです。そう生きてきた人は、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きることができるようになります。それこそが『本当のやもめ』なのです(本文要約)」。 

聖書には、そのようなやもめがたくさん登場します。レプタ銅貨二枚を捧げたやもめがいました。それは本当に僅かな捧げものでしたが、イエス様は彼女に目をとめ「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん捧げました(マルコ12:43)」と褒められました。また救い主を待ち望み、祈りと断食をもって神に仕えていたアンナも、神の目にとまり、幼子イエスに会うことが許されました。彼女たちは「生きてはいても、もう死んだ者」ではなく、本当の意味で最後まで生き抜いたのです! 

「誰も自分に何もしてくれない」と嘆くより、神と人とのために出来ることを喜ぶ人でありたい。たとえそれが、どんな小さなことであったとしても。もし何もできなくても、誰かのために祈れることを喜びたい。そんな生き方を全うしたい。



ほんとうのやもめで、
身寄りのない人は、望みを神に置いて、
昼も夜も絶えず神に
願いと祈りをささげています。
Ⅰテモテ5章5節