「詩と賛美と霊の歌とにより」とありますが、これはどういう意味でしょうか?まず「詩」とは旧約聖書の「詩篇」のことです。旧約の時代から、琴などに合わせて歌われていました。また「賛美」とは、詩篇以外の賛美のことです。分かりやすく言えば、時代の中で生まれてきた「讃美歌」です。最後に「霊の歌」とは、礼拝などにおいて神様に導かれて「即興で歌われた賛美」のことです。この「霊の歌」について、コリントの教会では混乱がありました。当時のコリント教会で特に強調されていた聖霊の賜物は「異言」でしたが、これは神様に心を向ける中で、自然に口からあふれてくる霊的な言葉です。それによって祈る人々は、神様と格別に深い交わりを実感し、恵まれるのですが、一つ残念なのは、聞いている人々に、その意味が分からなかったことです。また当時の礼拝では、この異言にメロディーをつけて、突然立ち上がり、即興で歌い出す人々がたくさんいたました。本人は恵まれるのですが、周りの人々はどうだったでしょうか?パウロは、この状況に対して、次のようにアドバイスしています。「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう(Ⅰコリント14:15)」。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい(40)」。
「知性において賛美する」とはどういうことでしょう。それは、聞いている人々にも、分かる言葉で賛美をするという意味です。そうすることにより、歌っている人が、いったい何に感動して、場合によっては涙を流して歌っているかが分かるようになるのです。クリスチャンでない人が同席する場合はなおさらです。現代の教会でも、求道者がいるのに、クリスチャン用語を並べて賛美するなら、聞く人々には「異言」のようでしょうか。「リカイ(理解)」の反対は「イカリ(怒り)」。そのような集会に「また来たい」と思うでしょうか。でも配慮をして、初めての人にも分かりやすい言葉で賛美をするなら、賛美は、素晴らしいメッセージとなり、証しとなるのです。実際に、私たちの教会でも「プレイズタイムの賛美が印象に残ったからこの教会に決めた」と言われることがしばしばあります。賛美は、メロディーに乗せて、神様のメッセージを心に届ける、最良の方法なのです。このように、賛美は、神様をほめたたえるタテ方向の歌ですが、聞く人々への証しという意味ではヨコ方向の歌でもあります。この両方向を大切にささげられる賛美は、人々の徳を高め、心からの「アーメン(その通りですという同意)」を生みだすのです(Ⅰコリント14:13-17)。
また賛美は「霊的な戦い」でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと兵隊の前に、聖歌隊を配置しました(Ⅱ歴代誌 20:21)。その聖歌隊が「主に感謝せよ、その恵みはとこしえまで!」と賛美しはじめたその時、主は不思議な方法で、敵を打ち負かして下さいました。私たちの目の前にも、問題や敵が立ちふさがることがあります。自分の力や策略では、どうにも前に進めないと思うことがあるかもしれません。その時、私たちに何ができるのでしょうか?その時こそ、賛美なのです!イエス様は十字架にかかられる前夜、賛美を歌ってからオリーブ山に向かい、ゲッセマネで霊的に勝利されました(マタイ26:30)。またパウロとシラスは、真夜中の獄中で賛美を捧げ、圧倒的な奇跡を体験しました(使徒16:25)。今でも多くの教会で、メッセージの直前に聖歌隊が歌うのも同じです。賛美がささげられるところ、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです。
クリスチャンの特徴はとにかくよく歌うことです。礼拝においてはもちろん、葬儀においてもです。なぜなら賛美こそ、私たちの力だからです。また賛美は、私たちの信仰告白であり、祈りでもあります。ところで葬儀に歌ってもらう愛唱歌を決めていますか?それは、あなたが今まで何を信じ、何に感動し、何に人生を捧げて来たのかを証しする、人生の集大成となるのです。
ですから、私たちは
キリストを通して、賛美のいけにえ、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、
神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル13章15節)