初代教会の初めの執事は7人でした(使徒6章)。教会が成長するにつれ、教会の働きも広がり、複雑化していきました。これは必ずしも悪いことではありません。人が集まるところ、当然、問題も起こるものです。大切なのはその問題をどう解決するかです。ここで登場している問題は、やもめたちに対する配給の問題でした。当時の教会は、一人では生活できないやもめたちの生活を支えていました。しかしその中でどうやら、ヘブル語を話すやもめたちの方が、ギリシャ語を話すやもめたちよりも、優先されていたらしいのです。分かりやすく言えば、地元の人優先だったということでしょうか。でも食べ物のことですから、そんな簡単に「ああそうですか」とはいきません。しかも「弟子たちが増えるにつれ」とありますから、やもめの数もどんどん増え、使徒たちにしてみれば、資金面でも今後どうやりくりしたらいいのか、まさに頭の痛い問題でした。
でも一番、使徒たちを悩ませていたのは、祈りとみことばの奉仕に時間をとれないことでした。そこで彼らはこう提案しました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」これが執事の働きなのです。今日でいうと、牧師が「祈りとみことば」の奉仕に専心できるよう、その奉仕の尊さを理解し、その他の業務を担い、支え、協力する存在なのです。具体的には「研修などへの派遣、プライバシーの確保、経済的理解、健康や休養などへの配慮なども含まれます(クリスチャン生活百科)」。役員は信徒の意見を代表する人だという意見もありますが、それが第一の目的ではありません。むしろ教会全体にみことばが正しく伝わるよう整える人なのです。教会は人の意見ではなく、みことば中心で動きます。
執事の働きは単なる「実務」だけでもありません。その基準に「御霊と知恵に満ちた」とあるように「これは霊的な働き」なのです。やもめの食事の配給といった、作業を上手に出来ればよいというのではなく、ステパノのようにいざとなったら「福音を語り、霊的な判断の出来る人」でなければいけません。テモテ第一3章8-13節にはこうあります。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単なる実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。こう言われるとプレッシャーですか?もしそうならイエス様は、大失敗を経験し、自信を喪失していたペテロに「ご自分の羊を任された」ことを思い出してください(ヨハネ21章)。選挙で選ばれても、自分は相応しくないと思うなら、そんなあなたにこそ、ぜひ引き受けてほしいのです。
執事(役員)は選挙によって選ばれますが、あなたはどのような思いで投票していますか?イエス様は12弟子を選ばれる際、徹夜の祈り捧げられました(ルカ6:12)。選挙は単なる人気投票ではありません。恐れと信仰を持って一票を投じましょう。そしてその結果を「みこころ」として受け止め、従いましょう。
というのは、
執事の務めをりっぱに果たした人は、
良い地歩を占め、
また、キリスト・イエスを信じる信仰について
強い確信を持つことができるからです。
Ⅰテモテ3章13節
そこで、兄弟たち。
あなたがたの中から、
御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちを
この仕事に当たらせることにします。
使徒6章3節