外国人には、日本のクリスチャンがよく学ぶように見えるようです。加藤常昭師がこう書いています。「日本の教会を外国のキリスト者が訪ねて下さると、共通に言われますことの一つは、日本人というのは教会でもよく勉強をするということです。礼拝において、日本人たちは分厚い聖書を手元に置き、それを開きながら説教を聴きます。そして説教者が聖書を引用すると一斉にそれを開くのです。人によってはメモを取りながら聞いている。外国では必ずそうするわけではありません。その他にも、読書会や聖書研究会などなど…少なくとも今までの教会は、よく学ぶ教会でした(要約)」。確かに私たちの教会でも、もちろん礼拝には聖書を持参し、もっと知りたくなれば「信仰入門クラス」や「洗礼準備会」という機会が設けられています。洗礼を受けてからは「聖書研究会」や、最近では「リバーサイド聖書塾」など、学ぶ機会は十分に備えられています。
でもそのような姿勢は、だんだん失われつつあるように思われます。日本全国的に見ても、聖書研究会の参加人数は激減しています。忙しい現代人にとって、平日、教会に集うのが難しいのがその主たる理由ですが、原因はそれだけでしょうか。学びのスタイルも変化してきています。誰かから教えられるのではなく、自分たちで聖書を読み、思った事を自由に分かち合うスタイルが好まれます。日本だけではありません、世界的にもそのような傾向が見られます。つまり「学びたくない」「お話を聞くのはちょっと…」「そういう時間はなるべく短く」できれば「もっと自分がしゃべりたい」「自分も教えたい」「自分の賜物を活用したい」という時代なのでしょうか。積極的で自主的なのは良いのですが、それだけでは大切な何かが抜け落ちています。もちろん「話す(宣べ伝える、互いに教える)」ことも大切ですが、それと同時に「しっかり聞く姿勢を持つ」というのは、クリスチャンの「信仰の本質」に関わる事なのです。聖書にもこうあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)」。
「聞きたくない」という姿勢は、現代に始まったことではなく、人間に宿る罪の性質です。コリントの教会にその問題を見ることができます。彼らは、教師から御言葉の説き明かしを聞くより、自分の預言や異言といった賜物を、みんなの前で披露することに一生懸命でした。そして礼拝中であるにもかかわらず、次々に立ち上がって奇声のラッパを吹いていたのです(Ⅰコリント13-14章)。しかも彼らは、パウロから教えられた福音にとどまらず、「私たちはこう思う」「こっちの方が私たちにフィットする」と、復活の教えを削除し、福音を捻じ曲げてしまいました。そんな彼らに対してパウロはこう言っています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう (Ⅰコリント15:2 新共同訳聖書)」。つまり、よく聞かないで、うろ覚えした福音を自分なりに解釈し、一生懸命信じたとしても、それでは「信じたこと自体が、無駄になってしまう」というのです。感覚的な日本人には、厳しく聞こえるかもしれませんが、それくらい、まず、よく聞いて、その福音に留まることが大切だ、ということです(注1)。
あなたは「教えられやすい心」を持っていますか?耳は二つ、口はひとつ。まずはしっかり御言葉を聞いて、教えられることが大切です。そうして初めて、必要なことを、必要な人に、語ることができるのです。
熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
箴言19章2節
ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、
非常に熱心にみことばを聞き、
はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。
その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。
使徒17章11-12節
また、もしあなたがたが
よく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。
Ⅰコリント15章2節