2013年4月11日木曜日

その15 「学ぶ群れ」 ローマ10章1-17節、Ⅰコリント15章1-5節

いままで「教会とは」と題し、「賛美する群れ」「祈る群れ」「話し合う教会」など、様々な角度から教会を見つめて来ました。そして今日のテーマは「学ぶ教会」です。今読んでいるこのテキストは、教会の聖書研究会のために書かれているものですが、これを読んでいる人は、学ぶ意欲の旺盛な人と言うことができるでしょう。元来クリスチャンは、よく学ぶ人たちです。クリスチャンはみんな頭がいいとか、頭がいい人しかクリスチャンになれないとか、そういうことを言っているのではありません。クリスチャンは、誠実に、福音を、まず聞こうとする人たちなのです。

外国人には、日本のクリスチャンがよく学ぶように見えるようです。加藤常昭師がこう書いています。「日本の教会を外国のキリスト者が訪ねて下さると、共通に言われますことの一つは、日本人というのは教会でもよく勉強をするということです。礼拝において、日本人たちは分厚い聖書を手元に置き、それを開きながら説教を聴きます。そして説教者が聖書を引用すると一斉にそれを開くのです。人によってはメモを取りながら聞いている。外国では必ずそうするわけではありません。その他にも、読書会や聖書研究会などなど…少なくとも今までの教会は、よく学ぶ教会でした(要約)」。確かに私たちの教会でも、もちろん礼拝には聖書を持参し、もっと知りたくなれば「信仰入門クラス」や「洗礼準備会」という機会が設けられています。洗礼を受けてからは「聖書研究会」や、最近では「リバーサイド聖書塾」など、学ぶ機会は十分に備えられています。

でもそのような姿勢は、だんだん失われつつあるように思われます。日本全国的に見ても、聖書研究会の参加人数は激減しています。忙しい現代人にとって、平日、教会に集うのが難しいのがその主たる理由ですが、原因はそれだけでしょうか。学びのスタイルも変化してきています。誰かから教えられるのではなく、自分たちで聖書を読み、思った事を自由に分かち合うスタイルが好まれます。日本だけではありません、世界的にもそのような傾向が見られます。つまり「学びたくない」「お話を聞くのはちょっと…」「そういう時間はなるべく短く」できれば「もっと自分がしゃべりたい」「自分も教えたい」「自分の賜物を活用したい」という時代なのでしょうか。積極的で自主的なのは良いのですが、それだけでは大切な何かが抜け落ちています。もちろん「話す(宣べ伝える、互いに教える)」ことも大切ですが、それと同時に「しっかり聞く姿勢を持つ」というのは、クリスチャンの「信仰の本質」に関わる事なのです。聖書にもこうあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)」。

「聞きたくない」という姿勢は、現代に始まったことではなく、人間に宿る罪の性質です。コリントの教会にその問題を見ることができます。彼らは、教師から御言葉の説き明かしを聞くより、自分の預言や異言といった賜物を、みんなの前で披露することに一生懸命でした。そして礼拝中であるにもかかわらず、次々に立ち上がって奇声のラッパを吹いていたのです(Ⅰコリント13-14章)。しかも彼らは、パウロから教えられた福音にとどまらず、「私たちはこう思う」「こっちの方が私たちにフィットする」と、復活の教えを削除し、福音を捻じ曲げてしまいました。そんな彼らに対してパウロはこう言っています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう (Ⅰコリント15:2 新共同訳聖書)」。つまり、よく聞かないで、うろ覚えした福音を自分なりに解釈し、一生懸命信じたとしても、それでは「信じたこと自体が、無駄になってしまう」というのです。感覚的な日本人には、厳しく聞こえるかもしれませんが、それくらい、まず、よく聞いて、その福音に留まることが大切だ、ということです(注1)。

あなたは「教えられやすい心」を持っていますか?耳は二つ、口はひとつ。まずはしっかり御言葉を聞いて、教えられることが大切です。そうして初めて、必要なことを、必要な人に、語ることができるのです。



熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
箴言19章2節

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、
非常に熱心にみことばを聞き、
はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。
その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。
使徒17章11-12節


また、もしあなたがたが
よく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。
Ⅰコリント15章2節









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注1:「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」が、新改訳聖書では「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら」と訳されています。これは「エイケー」というギリシャ語が「無駄に」とも「よく考えもしないで」とも訳される言葉だからです(BAG)。どちらに解釈したとしてもメッセージは同じです。「よく考えもしないで信じ、聞いた福音からそれていくならば、そのような信仰は神様の前に無駄だ」というわけです。

2013年3月14日木曜日

その14 「話し合う教会」 マルコ8-9章、使徒6,15章

前回は「やもめと教会」について学びました。その中で私たちはこう学びました。「うっかりすると、私たちは教会を、辛い人間に、慰めのサービスをするところと考えてしまいます。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働き、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きるのです。これこそ聖書で言うところの『本当のやもめ』なのです」。聖書には、この「やめもたちに関する議論」が登場します。毎日の配給に対する不平不満から生まれた議論です(使徒6:1-6)。どの教会にも問題はあります。大切なのはそれをどう解決していくかです。今日のテーマは「話し合う教会」です。 

はじめに「議論好き」は深刻な「病気」です。マルコ8章と9章を見ると、実に様々な「議論」や「論争」が登場します。「相手を陥れるために、議論を吹っ掛けてみたり (8:11)」「相手に責任をなすりつけて、お前が悪いと言い張ってみたり(16)」「『できなかった』理由を並べて、自分の失敗をなんとか正当化しようとしたり(9:14)」「自分の方が偉いと、言葉の多さや、声の大きさで、相手を威圧してみたり(34)」。気をつけなさい!議論に勝っても、決してあなたは幸せにはなれません。「議論に勝って、人の心を失う」と言いますが、勝てば勝つほど、あなたは、むしろ孤立していくでしょう。そうすると、ますますエスカレートし、時には信仰(御言葉)さえも持ち出し、自分を正当化し、相手を悪者にし、攻撃するのです。すると、あなたはますます孤立していくでしょう。まさに悪循環です。議論で相手を変えることはできません。心に残るのは「うらみ」と「敵意」だけです。聖書にはこうあります。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ…絶え間のない紛争が生じるのです(Ⅰテモテ6:4-5)。 

でも「話し合い」は大切です。成熟した共同体は、話し合いで問題を解決します。生まれたばかりの教会は、イスカリオテ・ユダの欠けを補うために「くじ」でマッテヤを選びました(使徒1:26)。しかし「やもめに関する議論」の際、弟子たちは「あなた方の中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人を7人選びなさい(使徒6:3)」と言いました。つまり「自分たちでよく祈って、みことばに照らし合わせ、話し合って解決しなさい」といったのです。もっと大きな問題になれば教会代表者たちによる話し合いが行われます。使徒15章に、異邦人が救われた際、彼らに割礼をほどこすべきか否かという、ユダヤ人にとっては避けては通れない難題にぶちあたりました。その際、彼らはどうしたでしょう?「鶴の一声」ならぬ「有力者の一声」で決めたでしょうか?いいえ、教会の代表者たちが集まり、会議を開き、激しく本音でぶつかり合いながら、答えを導きだしていったのです。これが有名な「エルサレム会議」です。よく「会議は不信仰だ」という人がいますが、そんなことはありません。そこに信仰があれば、会議は素晴らしいのです。 

では「議論」と「話し合い」はどこが違うのでしょうか。基本的に良い会議には、互いに対する「尊敬」があります。聖書にもこうあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」。自己中心な議論は、自分のことしか考えていません。いかに、相手を攻撃し、黙らせ、打ち負かそうか、とばかり考えています。そして、自分の方が正しくて、賢くて、上に立っていることを、見せつけようとするのです。そこから生まれるのは、絶え間ない「争い」と「破壊」と「分裂」です。しかし、御霊に満ちあふれたクリスチャンには「相手の意見からも教えられたい」「みんなで主に示されたことを持ち寄って、より完全なキリストのからだを建て上げていきたい」という、神様と教会、そして兄弟姉妹に対する愛があるのです。なぜなら、そこには「イエス様はその人のためにも十字架にかかられた。その人の中にも主の御霊が宿っておられる」という敬意があるからです。でも残念なことに、教会での話し合いも「肉の議論」となってしまうことがあります。そうならないためにも、教会のリーダーを始め、一人一人が「御言葉と祈り」を中心に生きていなくてはなりません。御言葉も、読み方によっては凶器(きょうき)となります。「あの人、この人」ではなく、まず自分の心を吟味し、御前に悔い改めなさい。そこから「神の国」と「平和」が広がるのです。 

言葉には二種類あります。一つは「教会を建て上げることば」もう一つは「教会を破壊する言葉」です。 



これらのことを人々に思い出させなさい。
そして何の益にもならず、
聞いている人々を滅ぼすことになるような、
ことばについての論争などしないように、
神の御前できびしく命じなさい。
Ⅱテモテ2章14節




2013年3月7日木曜日

その13 「やもめと教会」 Ⅰテモテ5章

前回は「看取る(見送る)教会」と題して、この世での最後の大仕事「死」への備えについて学びました。特に、自分が、何に感動し、何に希望を置いて生きて来たのかを証しにまとめることは大切です。聖書にもこうあるからです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。でも、そもそも、なぜこのような話しになったのでしょうか?その始まりは「年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1」」のひとことでした。実はその言葉には続きがありました。今日はそれを学びましょう。

「やもめの中でも本当のやもめを敬いなさい(3)」。これが「年寄りを叱ってはいけない」の続きです。聖書には、やもめを大切にするようにとの教えが溢れています。旧約聖書では「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる(出エジプト22:22-23)」。新約聖書でも「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです(ヤコブ1:26-27)」とあります。「やもめ」と「みなしご(孤児)」は、しばしばセットで語られています。それは当時の社会の中で、どちらも一人では生きていけない、弱くて、助けの必要な人たちだったからです。神様の愛を信じる者は、弱い人をも愛するように教えられているのです。 

でも、わざわざ「本当のやもめ」とあるのはなぜでしょうか?きっと当時の教会の中では教会の善意に甘えて、しまりのない生活をしている人が少なからずいたのでしょう。聖書にはそのことが厳しく指摘されています。「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです(6)」「そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します(13)」。ですから当時の教会は下記のような基準を定めました。「もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がそのやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます(16)」。つまり「身内のお世話は自分たちで」という原則です。当たり前のようですが、そうではない現実があります。クリスチャンではあっても、自分の親の世話を、近くの教会にお願いし、自分は遠くの教会で安らかに信仰生活を送っている場合があります。決して悪気はないと思いますが、聖書ははっきりと「そのような人の宗教(信仰)は虚しいのです(ヤコブ1:26)」とあります。一人一人「教会に負担をかけないように」との配慮を忘れてはいけません。 

教会を「サービスを受けるところ」と思ってはいけません。加藤常昭師はこう指摘します。「やもめだけではありません。私たちはうっかりすると、教会を、つらい人間、悲しい人間に、慰めのサービスをしてくれるところと考えてしまうことがあります。最初はそうでも、福音を聞き、洗礼を受け、生まれ変わると考え方が変わります。もし変わらないと、あちこちの教会に行って、どこの教会のサービスが良いか、どこの牧師が親切で、どこの牧師が不愛想とか、まるで商店のサービスを比べるように論評したりするようになります。教会に長く来ている方の中にも、そういう教会生活をしている方達がいないわけではありません。そういう方たちに限り(思い通りのサービスが受けられないと)『教会に躓いた』と言います。しかし教会とは『他者のために生きる喜び』を学ぶところです。体を動かせる時は、神と人に仕えてせっせと働きます。自分の寂しさや悲しみを乗り越えて、奉仕し、困っている人を助けることを喜びとするのです。そう生きてきた人は、働く力がなくなっても、絶えず願いと祈りとに生きることができるようになります。それこそが『本当のやもめ』なのです(本文要約)」。 

聖書には、そのようなやもめがたくさん登場します。レプタ銅貨二枚を捧げたやもめがいました。それは本当に僅かな捧げものでしたが、イエス様は彼女に目をとめ「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん捧げました(マルコ12:43)」と褒められました。また救い主を待ち望み、祈りと断食をもって神に仕えていたアンナも、神の目にとまり、幼子イエスに会うことが許されました。彼女たちは「生きてはいても、もう死んだ者」ではなく、本当の意味で最後まで生き抜いたのです! 

「誰も自分に何もしてくれない」と嘆くより、神と人とのために出来ることを喜ぶ人でありたい。たとえそれが、どんな小さなことであったとしても。もし何もできなくても、誰かのために祈れることを喜びたい。そんな生き方を全うしたい。



ほんとうのやもめで、
身寄りのない人は、望みを神に置いて、
昼も夜も絶えず神に
願いと祈りをささげています。
Ⅰテモテ5章5節







2013年2月27日水曜日

その12 「看取る(見送る)教会」 Ⅰテサロニケ4章 ヨハネ11章


前回は「家族としての教会」と題し、特に高齢者について学びました。「近年、高齢者虐待が深刻な社会問題となっています。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねる)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金の横取り)その他にも言葉による暴力などがあげられます。しかし聖書には、お年寄りについて、このように教えられています。『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)』。『年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1)』」。こういったクリスチャンの高い倫理性はどこからきているのでしょう。それは、人が「神のかたちに造られている(創世記1:27)」という人間理解から来ています。またそれは、教会の葬儀においても、見られます。

今日のテーマは「看取る(見送る)教会」です。家族としての教会は、人生のあらゆる場面を共有します。出産のように喜びの時もあれば、お葬式のように悲しみの時もあります。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」とありますが、私たちはそれらすべてにおいて、このことを実践するのです。今回は、その中でも、葬儀について学びたいと思います。よく「ゆりかごから墓場まで」と言われますが、教会は「ゆりかごから天国まで」です。ですから、単に「看取る」のではなく「見送る」としておきました。キリスト教葬儀には大きく三つの意味があります。①遺体の葬り(最後まで故人への愛と敬意を表す)②遺族への慰めの気持ちを表す ③信仰からくる希望を表す。それら一つ一つについて見て行きましょう。 

まずは遺体の葬りです。先日、その名も「遺体 ~明日への十日間~」という映画を観て来ました。題名からして、観るのを躊躇したのですが、看取る機会の多い者として、観なければいけない気がして足を運びました。そして観ている最中、ずっと涙が止まりませんでした…。2011年3月11日に起きた東北大震災からの10日間を追った映画(実話)です。学校の体育館が遺体安置所となり、おびただしい数の遺体が運ばれて来る。狂気に陥りそうな混乱の中で、精一杯の思いを込めて、遺体を弔(とむら)う人々の姿が描かれていました。遺体を丁寧に扱うことは、故人の尊厳を最後まで守ること。それは、遺族と誠心誠意向き合うことにもつながる。そんな事を教えられました。クリスチャンは遺体を粗末にするし、葬儀にもこだわらない、と誤解をしている人がいますが、決してそんなことはありません。クリスチャンこそ「神のかたちに造られた人」を、最後まで、その尊厳と威厳を損なわないよう、丁寧に、心を込めて、葬りの式を行うのです。 

続いて遺族への慰めです。葬儀は伝道集会ではありません。遺族の感情を無視して、一方的に福音を語っても、悲しみにくれる遺族の心に届くでしょうか。そのような配慮のなさは、むしろ未信者にとって躓きとなります。イエス様はラザロの死に際して「涙を流され」ました(ヨハネ11:35)。大事なのは「泣く者と一緒に泣くこと」です。テクニックではありません。遺族の心に寄り添うことによって、哀悼の意を伝えるのです。同時にクリスチャンは「望みのない人々のように悲しみに沈まない」事も大切です(Ⅰテサロニケ4:13)。不自然に「ハレルヤ」と明るくする必要もありませんが、悲しみに沈み過ぎず、主にある復活の希望を証しすることも忘れてはいけません(4:18)。 

最後に信仰からくる希望の表明です。残された者が、果たすべき使命(大仕事)がここにあります。それは涙を流すことだけではなく、故人が残した信仰をしっかり神と人との前で証しすることです。単に思い出を語るだけではなく、故人が何に希望を置き、何に感動して生きて来たかを、故人に代わって証し続けるのです。そのことが悲しみに沈む遺族に対して「私のために悲しまないでください」という最良の慰めにもなるのです。だから、生きている時から自分の証しをまとめ、牧師に渡しておくことは大切です。聖書にもこうあります。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。やがて訪れる死に対して、今から出来る備えがある。それこそが「証しの準備」なのです。 

あなたは自分の人生を通して伝えたいメッセージを持っていますか? またそのメッセージに、実際に生きていますか? 葬儀は、あなたがどのように生きて来たかの集大成なのです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。これは御国での再会の希望であるとともに、信仰に生きた人の希望が、残される者の心の中で生き続けことでもあります。 



イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネ11章25節


眠った人々のことについては、
兄弟たち、あなたがたに
知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように
悲しみに沈むことのないためです。
Ⅰテサロニケ4章13節







2013年2月21日木曜日

その11 「家族としての教会」 Ⅰテモテ5章1節

前回は「祈る群れ」と題してこう学びました。「一人で祈ることも大切です。イエス様はいつも寂しいところで祈っておられました。でもイエス様はこうとも教えられました『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)』。集まって祈る時、その力は、かけ算的に増すのです!」。このように私たちの信仰は、個人主義ではなく、共同体を大切にしています。そして共同体の最もよく表す表現が「家族」です。今日はこの「家族としての教会」について一緒に学びましょう。

近年「高齢者虐待」が隠れた大問題となっています。こどもへの虐待ほどニュースになりませんが、その潜在的な件数はかなりになると見られます。大きくは、家庭内と施設内で起こるケースとに分けられます。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねるなど)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金・財産を不正に横取りする)その他にも言葉による暴力などがあげられます。聖書には、たとえ誰も見ていなくて、本人さえ気づかなくても、盲人や難聴者に対して不条理な扱いをすることを厳しく戒めています。「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である(レビ19:14)」。同様に、弱くなっても、認知症が進んでも、老人に対して、神を恐れ、キリストに対するように接しなければいけないと聖書には教えられています。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)」。これは、現代の日本においても大切なおしえではないでしょうか。 

パウロは牧会書簡の中で、若い伝道者テモテに「年寄りを叱ってはいけません。むしろ父親に対するように勧めなさい(Ⅰテモテ5:1)」と教えています。このことについて加藤常昭師はこう教えています。「私ども人間が年をとると、ますます円満になり、問題の少ない人間になるかというと、そうはいきません。若い時は若い時なりに問題があり、壮年期には壮年期の問題があり、年老いれば、それなりの悩みと苦しみが出てまいります。肉体の力が衰えるだけではなく、心の力も衰え、つまらない間違いをするようになります。自分で自分の心をコントロールすることができなくなり、かえって裸の欲望に振り回されて生きてしまうようなことが起こります。『またそんな事をやっちゃって!』と叱られるようなことをしてしまうことを、聖書は否定していません。でもその時は『叱ってはいけない』『父親に対するように勧めなさい』と教えられているのです。『勧める』とは『丁寧な言葉で気づかせる』ことです。若くても年老いても罪は犯します。やはり教会ですから、罪をうやむやにはせず、気づかせることは大切です。でもこの『勧める』というギリシャ語には『慰める』という意味も含まれています。老人が罪を犯す時、一番うろたえているのは老人本人です。ですから叱りつけるのではなく、『慰め、丁寧に諭すこと』が牧師の務めなのです(本文要約)」。教会が、愛と尊敬とを持って、お年寄りに接することが大切なのです。

でもお年寄りには「一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とも勧めたいと思います。教会は、お年寄りだけの居場所ではありませんし、若者だけが、お年寄りに気を使わなければいけないわけではありません。聖書には「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とあります。直接には、人の上に立つ人々のことですが、家父長制度や年功序列といった傾向の強いユダヤの社会では、年長者に対する教えとそて理解しても良いでしょう。どうですか、あなたは見慣れない若者たちが、我がもの顔で教会を闊歩(かっぽ)し、なじみのないメロディーで賛美していても、それを喜ぶことができますか?小さな赤ちゃんが、慣れ親しんだ静かな礼拝で声を出してしまうとき、(もちろん限度はありますが)その幼い魂を心から受け入れることができますか?聖書には「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです(マタイ18:5)」と教えられています。

大切なのは、それぞれの世代が、自分の権利を主張することではありません。むしろ互いに、認め合い、配慮し合い、仕え合う姿勢が「家族としての教会」には必要なのです。若者たちは、今まで教会を支えてこられた先輩方を尊敬し、大切にすべきです。同時にお年寄りたちは、これからの教会を担って行く若者たちを励まし、受け入れるべきです。私たちは愛において一つです。



あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
レビ19章32節

年寄りをしかってはいけません。
むしろ、父親に対するように勧めなさい。
Ⅰテモテ5章1節

あなたがたの間で一番偉い人は
一番年の若い者のようになりなさい。
ルカ22章26節




2013年2月14日木曜日

その10「祈る群れ」 使徒の働き12章

前回は「賛美する群れ」と題して、このように学びました。「賛美は『霊的な戦い』でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと武装した兵隊の前に、聖歌隊を配置しました。そして聖歌隊が高らかに賛美しはじめた瞬間、主は不思議な方法で、勝利を与えて下さったのです!今でも、多くの教会ではメッセージの直前に聖歌隊が歌います。それは賛美がささげられる時、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです」。そもそも賛美は、メロディーのついた祈りでもあります。賛美と祈りは切っても切り離せません。今日は「祈り」について学びたいと思います。 

「教会ってどんなところ」と聞かれれば「祈りの家です」と答えることができます。イエス様は宮(礼拝のささげられる場所)のことを「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」(マタイ21:13)とおっしゃられました。でもどうでしょう。私たちの教会は「祈りの家」となっているでしょうか?ここ数年私たちの教会の、聖研祈祷会出席者は減っています。これは私たちの教会に限ったことではなく、日本中、いや世界中の先進国にある教会に共通する傾向でもあります。生活スタイルが変わり、週の半ばに、教会に来にくくなった、という事情もあるのでしょう。でもそうなら、私たちは「集まって祈る機会」をどこかで補っているでしょうか?一人で祈ることも大切です。イエス様はいつも寂しいところで祈っておられました(マルコ1:35)。でも聖書には「集まって祈ることの大切さ」も強調されています。あのペンテコステの直前にも、弟子たちは一つところに集まって祈っていました(使徒1:14,2:1)。またイエス様もこう教えています。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)。集まって祈る時、その力は「かけ算的」に増すのです! 

初代教会は、とにかく集まってよく祈りました。福音がすさまじい勢いで広がるなか、何とかそれを留めようとする勢いも増しました。ヘロデ王は、弟子の中でも中心的な役割を果たすヤコブに目をつけ、彼を剣で殺しました(使徒12章)。これは当時、殺人犯と背教者だけに下される屈辱的な刑でした。でも、その刑を、ユダヤ人たちは喜んだのです。そこでヘロデ王は、もっと民に気に入られようと、次は、事実上の教会の最高指導者ペテロをとらえて、殺害しようと考えたのです。もはや絶体絶命です。その時教会は何をしたでしょうか。なんと祈り始めたのです!聖書にはこうあります。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた(5)」。この「熱心に」とは、ギリシャ語で「エクテノース」といい、他にも「熱く燃え上がる、熱烈に、終わることなく」などの意味があります。それほど教会は熱心に祈り続けたのです。その結果何が起きたでしょう。ペテロは二本の鎖につながれて、兵士の間に寝かされ、戸口には番兵が監視していたのに、御使いの「急いで立ち上がりなさい」との呼び掛けにこたえて立ち上がると、鎖は解け落ち、その後もまるで幻の中を歩いて行くかのようにして、牢の外に救いだされたのです。その瞬間、御使いたちは見えなくなりました。ペテロは我に返り、まっさきに皆が祈っている場所に急ぎました。 

賛美が霊的戦いの「最前線」なら、祈りは「最強の後方支援」です。ペテロが祈り会の場所に到達し、戸を激しくたたくと、ロダという女中が応対しました。そしてペテロの声だと分かると、戸をあけもせず、奥に入って行き、他の弟子たちに「ペテロが戸の外に立っている」と伝えました。その時の反応は意外なものでした。ある者は「あなたは気が狂っているのだ」と言い、ある者は「それは彼の御使いだ」と言ったのです。一体彼らは何を信じていたのでしょう?ここから二つのことを教えられます。一つは、信じて祈ることの大切さです。ペテロが救われたから、ほほえましいエピソードですが、やはり彼らの不信仰は反面教師です。イエス様はこう教えられました。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます(マタイ21:22)」。もう一つ教えられるのは、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、不完全な祈りさえも聞いてくださるイエス様の憐みです。私たちは、この憐れみがあるから、失望せず、なおも大胆に祈り続けることができるのです。奇跡を行う力は、私たちの祈りそのものではなく、主ご自身の内にあるのです。 

教会で、集まって、祈ることを大切に。世間話なら他でもできます。でも互いに祈り合うことは、クリスチャン同士にしかできません。どんな小さな祈りの輪にも主がともにいて下さいます。 



もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、 
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。
(マタイ18章19節)

だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。
(マルコ11:24




2013年2月7日木曜日

その9「賛美する群れ」 Ⅰコリント14:15 Ⅱ歴代誌20:21

前回は「互いに」と題して、「互いに赦し合うこと」と「互いに教え、戒め合うこと」を学びました。聖書にはこうあります。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロサイ3:16)」。興味深いことに、互いに教え、戒め合うことと、賛美がセットで記されています。教え戒めることは、必ず賛美とセットで行わなければいけない、と言われているようでもあります。互いに戒め合いながら、ともに賛美することにより、私たちの心は主に向けられ、愛し赦し合うものとされるのです。今日は、この賛美について学びましょう。

「詩と賛美と霊の歌とにより」とありますが、これはどういう意味でしょうか?まず「詩」とは旧約聖書の「詩篇」のことです。旧約の時代から、琴などに合わせて歌われていました。また「賛美」とは、詩篇以外の賛美のことです。分かりやすく言えば、時代の中で生まれてきた「讃美歌」です。最後に「霊の歌」とは、礼拝などにおいて神様に導かれて「即興で歌われた賛美」のことです。この「霊の歌」について、コリントの教会では混乱がありました。当時のコリント教会で特に強調されていた聖霊の賜物は「異言」でしたが、これは神様に心を向ける中で、自然に口からあふれてくる霊的な言葉です。それによって祈る人々は、神様と格別に深い交わりを実感し、恵まれるのですが、一つ残念なのは、聞いている人々に、その意味が分からなかったことです。また当時の礼拝では、この異言にメロディーをつけて、突然立ち上がり、即興で歌い出す人々がたくさんいたました。本人は恵まれるのですが、周りの人々はどうだったでしょうか?パウロは、この状況に対して、次のようにアドバイスしています。「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう(Ⅰコリント14:15)」。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい(40)」。 

「知性において賛美する」とはどういうことでしょう。それは、聞いている人々にも、分かる言葉で賛美をするという意味です。そうすることにより、歌っている人が、いったい何に感動して、場合によっては涙を流して歌っているかが分かるようになるのです。クリスチャンでない人が同席する場合はなおさらです。現代の教会でも、求道者がいるのに、クリスチャン用語を並べて賛美するなら、聞く人々には「異言」のようでしょうか。「リカイ(理解)」の反対は「イカリ(怒り)」。そのような集会に「また来たい」と思うでしょうか。でも配慮をして、初めての人にも分かりやすい言葉で賛美をするなら、賛美は、素晴らしいメッセージとなり、証しとなるのです。実際に、私たちの教会でも「プレイズタイムの賛美が印象に残ったからこの教会に決めた」と言われることがしばしばあります。賛美は、メロディーに乗せて、神様のメッセージを心に届ける、最良の方法なのです。このように、賛美は、神様をほめたたえるタテ方向の歌ですが、聞く人々への証しという意味ではヨコ方向の歌でもあります。この両方向を大切にささげられる賛美は、人々の徳を高め、心からの「アーメン(その通りですという同意)」を生みだすのです(Ⅰコリント14:13-17)。 

また賛美は「霊的な戦い」でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと兵隊の前に、聖歌隊を配置しました(Ⅱ歴代誌 20:21)。その聖歌隊が「主に感謝せよ、その恵みはとこしえまで!」と賛美しはじめたその時、主は不思議な方法で、敵を打ち負かして下さいました。私たちの目の前にも、問題や敵が立ちふさがることがあります。自分の力や策略では、どうにも前に進めないと思うことがあるかもしれません。その時、私たちに何ができるのでしょうか?その時こそ、賛美なのです!イエス様は十字架にかかられる前夜、賛美を歌ってからオリーブ山に向かい、ゲッセマネで霊的に勝利されました(マタイ26:30)。またパウロとシラスは、真夜中の獄中で賛美を捧げ、圧倒的な奇跡を体験しました(使徒16:25)。今でも多くの教会で、メッセージの直前に聖歌隊が歌うのも同じです。賛美がささげられるところ、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです。 

クリスチャンの特徴はとにかくよく歌うことです。礼拝においてはもちろん、葬儀においてもです。なぜなら賛美こそ、私たちの力だからです。また賛美は、私たちの信仰告白であり、祈りでもあります。ところで葬儀に歌ってもらう愛唱歌を決めていますか?それは、あなたが今まで何を信じ、何に感動し、何に人生を捧げて来たのかを証しする、人生の集大成となるのです。 



ですから、私たちは
キリストを通して、賛美のいけにえ、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、 
神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル13章15節)