2013年5月29日水曜日

その21 「目には見えない教会?」 マタイ13章

前回はヨナ書から、このように教えられました。「ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのならば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。自分には直接関係のない海外の人々の救いのためにも、祈れるクリスチャンになりたいと思います。」今日は、世界大の教会(不可視的教会)と、各地に点在する地域教会(可視的教会)についてお話ししたいと思います。

いまさらながら教会って何でしょう?ある人々はこう言います。「聖書には『ふたりでも三人でも、わたし(イエス様)の名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)』と書いてある。だから、どこでもクリスチャンが、二人以上集まるなら、そこが『教会』なんだ」。そして実際にスモールグループそのものが教会だと主張し、思い思いの「教会」生活を送っているのです。そのような状態を「教会観がない」と言います。実は、そのような混乱は今に始まったことではありません。宗教改革が起こった時、ルター率いるプロテスタント教会は、カトリック教会という大きな傘(制度、組織)のもとを出ました。そして制度と儀式でガンジガラメになった教会を改革し「神の言葉があるところに信仰があり、信仰があるところに神の教会がある」と、「信仰」と「神の言葉」を土台とする本来の教会の姿を回復したのです。しかし、それを極端に解釈する人々が現れました。「急進派(ルターいわく熱狂主義者)」と呼ばれる人々は、御言葉さえ語られていれば「それが教会だ」と主張し、思い思いに教会を作り、絶え間ない分裂と対立という混乱を招いてしまったのです。それはルターが本来意図したことではありませんでした。

そこにジャン・カルバンがあらわれ、もう一度、教会というものを次のように定義しました。「教会とは①神の言葉が説教されているところであり、②サクラメント(洗礼式と聖餐式という聖礼典)が正しく施行(しこう)されているところです」。この定義には、それを支える「教会の制度(教会政治)」の理解も含まれています。教会は、制度や組織ではありませんが、秩序は存在します。パウロもこう書いています。「ただ、全てのことを適切に、秩序をもって行いなさい。(Ⅰコリント14:40)」つまりカルバンは、無秩序な教会形成をするのではなくプロセス(秩序)を大事にしなさいといっているのです。少しややこしいですが、私たちの教会で言うとこういうことです。地域教会の「会衆」によって「教会役員」が選ばれます。その教会役員の代表が「教団総会」に出席し、その教団総会において「教団役員会」が選ばれます。地域教会の牧師は①「牧師本人」の召しを尊重し②「教会役員会」によって招聘され③「教団役員会」が任職します。これを「三者合議」といいます。このようにして立てられた牧師を通して「聖礼典」と「御言葉の説教」がなされるのです。先にも言ったように「ややこしい」です。しかしこのようなプロセスを経て「権力の偏り」や「教理的誤り」、「教会のカルト化」を防ぎ、健全な「地域教会」を建て上げているのです。

それとは別に、不可視的教会という概念があります。不可視的とは、目には見えない、という意味です。つまり「現在、過去、未来、すべての聖徒からなる、完全にして、霊的な教会のこと」です。「公同(こうどう)の教会」ともいいます。使徒信条の中で「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会」といいますが、そのことです。この公同の教会は、キリストの再臨の時に完成します。エペソ人への手紙に「(イエス様が終わりの日に)しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(5:27)」とある通りです。しかし地上の教会は、完全ではありません。完璧な制度(教会政治)もありません。上記のように、完全である努力はしていますが、多くの問題もあります。イエス様の「毒麦のたとえ話(マタイ13章)」はそのことを言っています。時には本当に救われているのか、首をかしげたくなることもあるのかもしれません。でもイエス様はこう言われます。「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。(30)」毒麦を抜くことは私たちの仕事ではありません。私たちの目の方が曇っていて、その人は、本当は正しいことを言っているのかもしれません。また悪意があったとしても、神様はその人の悪意さえも用いて、ご自分の目的を達成することができるお方です(箴言16:4)。毒麦は御使いに任せましょう(41)。私たちの仕事は、時が良くても悪くても、福音の種を撒き、愛する兄弟姉妹とともに、この地上にキリストのからだなる教会を建て上げていくことなのです。

公同の教会の一員として、天の完全な交わりを夢見ながら、地上の教会に仕えて行きましょう。



だが、主人は言った。
「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、
 麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 
 だから、収穫まで、
 両方とも育つままにしておきなさい。」
マタイ13章29-30節(要約)

キリストが教会を愛し、
ご自身をささげられたのは、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、
ご自分の前に立たせるためです。
エペソ5章25-27節(要約)




2013年5月23日木曜日

その20 「世界に出ていく教会」 ヨナ1-4章

前回は「地の塩としての教会」と題し、このように学びました。「クリスチャンと教会に対する、神様の約束の土台となっているのが、アブラハム契約です(創世記12:1-3)。…そして私たちはイエス様の十字架によって、この契約の相続人とされているのです(ガラテヤ3:14,29)。すなわち①もし私たちが偶像礼拝と古い生き方を離れ、天の都を目指し、キリストに従って新しい人生を始めるなら。②主は私たちを大いなる共同体(教会)の一員とし、祝福してくださる。③その祝福は教会を通して、全世界にもおよぶ。」そこで今日は「世界に出て行く教会」と題して学びます。

意外かもしれませんが、旧約聖書のヨナ書から「世界宣教」について教えられたいと思います。ヨナはある時、神様からこの命じられます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ(2)。」つまり神のさばきを宣告し、悔い改めを呼び掛けよ、というわけです。しかし彼はその命令に激しく抵抗します。「ヨナは、主の御顔を避けてタルシュシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った(3)。」タルシュシュとはイザヤ書に「わたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない(66:19)」と言われている、いわば「地の果て」です。そこまで逃げて行きたいほど、ヨナにとってニネベ行きは考えられないことだったのです。なぜでしょう?それはニネベがアッシリヤという国の首都であったからです。アッシリヤは常にイスラエルを脅かし、後に北イスラエル王国を滅ぼすことになる、言わば「敵国」です。そんな国のため働きたくないというのは、ある意味当然の反応なのかもしれません。しかし彼はその結果、魚に飲み込まれ、三日三晩ただよい、苦しみもだえながら悔い改めへと導かれるのでした(2章)。そしてニネベに行って、主のことばを宣べ伝えました(3章)。

その結果、ニネベの町は悔い改め、救われました。ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせました。彼は怒ってこう祈りました。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから(4:3)。」そして諦められず、なおも、今か今かと「さばき」を待ち続けていたのです(5)。神様はそんなヨナの頭上にトウゴマ生えさせ、その葉によって日陰を与えられました。しかし喜びも束の間、翌日の夜明け前に、その葉は虫に食われて枯れてしまったのです。そこで彼はまたもやこう言います。「生きているより死んだ方がましだ(8)」。主はこの一連の出来事を通して、彼に「一方的な主の恵み」を教えようとされているのです。主はこう仰せられました。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか(10-11)。」つまりヨナは自分も主に背き、一方的な恵みによって、赦され、生かされた者として、どうして同じように他の罪人が赦され、生かされることを喜べないのか」と問われているのです。

主は私たちにも「ニネベに行きなさい」と命じています。それは右も左もわきまえず、神に背いて生きている人々のことかもしれません。神様は私たちクリスチャンと同じくらい、未信者の事も愛しておられます。「自分たちだけの神様」だと思ってはなりません。神様は全ての人の主です!またあなたにとってのニネベは、文字通りの外国かもしれません。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)。」これはお勧めではなく、大宣教「命令」です。あなたは言うかもしれません。「いいえ、行きたくありません。大宣教命令は私個人ではなく『教会』に与えられている命令ではありませんか。」確かにその通りです。でももしそうなら、あなたは祈りによって、経済的にも、教会の海外宣教を支えていますか?またある方は「日本にはクリスチャンが1%もいないのにどうして外国ですか」と思うかもしれません。でも大宣教命令が与えられた時、イスラエルに1%のクリスチャンがいたでしょうか?あなたがこの命令に従わない理由は何でしょう。ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが、自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのであれば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。神様は、彼らのことも愛し、あなたと一緒に彼らにも恵みと祝福を届けたいと願っておられるのです。

あなたのニネベはどこですか? 
無関心を超えて、海外宣教のためにも祈るクリスチャンになろう。


「これで私は、はっきりわかりました。
 神はかたよったことをなさらず、

 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、
 正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
 このイエス・キリストはすべての人の主です。」

使徒10章34-36節(抜粋)





2013年5月15日水曜日

その19 「地の塩としての教会」 創世記12章1-3節

前回は「執事の働き」について学びました。Ⅰテモテには、その執事の基準としてこうありました。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単に実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。加えて、その直前の「監督」の条件にはこうあります。「また、教会外の人々にも、評判の良い人でなければいけません。(Ⅰテモテ3:7)」教会の中で評判が良いだけでは不十分で、この世の中での評判も大事だということです。なぜなら教会とは、当然、この世の中でも存在しているからです。そこで今回は「地の塩としての教会」と題して学びます。

教会は「この世に対する祝福の通り良き管」です。クリスチャンと教会に対する、神様の約束の土台となっているのが、アブラハムに対する契約です。そこには大きく三つのことが記されています(創世記12:1-3)。①「あなたは、あなたの故郷、父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」②「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名は祝福となる」③「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。私たちはイエス様の十字架によって、この契約の相続人とされています(ガラテヤ3:14,29)。すなわち①「もし私たちが偶像礼拝と古い生き方を離れ、天の都を目指し、キリストに従って新しい人生を始めるなら」②「主は私たちを大いなる共同体(教会)の一員とし、祝福してくださる」③「またその祝福は教会を通して、地域にもおよぶ。」まさに、岐阜リバーサイドチャーチのビジョンにある通りです。「いのちの水が、あふれ、流れ、すべての民を、生かし、いやす。」これが神様からの約束です! 

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです(Ⅰペテロ3:9)」。このことを忘れてはいけません。何度も言いますが、私たちは、自分たちだけが幸せになるために救われたのではありません。私たちを通して、周りの人々も、家族だけではなく、地域の人々にも祝福がおよぶために「通り良き管(くだ)」として召されているのです。パリサイ人たちはこの契約を勘違いし、恵みを独占しようとし、良くない意味での選民意識におちいり、異邦人や罪人との接触をことごとく避けました。その結果どうなったでしょうか?「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い(マタイ10:39)」とあるように、彼らはその祝福を失ってしまったのです。何と皮肉なことでしょう…。私たちも同じ間違いを繰り返してはいけません。間違った意味での霊的エリート意識は捨てなさい!むしろ、一方的な恵みを受け、救われた者として、この世の中に出て行って、溢れるばかりに与える者となりたいと思います。その時、この世の中の人々も教会の存在に気付き、その惜しまずに与える姿に、イエス・キリストの十字架の愛を見るのではないでしょうか。 

「あなたがたは、地の塩です(マタイ5:13)」。塩の役割は腐敗防止です。また料理の中に少量加えるだけで、素材の味を引き立てます。クリスチャンもそんな存在です。数の問題ではなく、どんなに少なくても、この世の中に出て行く時、そのクリスチャンの存在が、この世の中に少なくないインパクトを与えるのです。しかし塩が塩だけで固まっていても、その役割は果たされません。聖書にはこうあります。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)」ある方は、次の聖書の言葉を取り上げて反論するかもしれません。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(Ⅰヨハネ2:15)」確かにそうです。私たち一人一人は誘惑に負けやすい。ミイラ取りがミイラになってしまう可能性はあります。だから教会が必要なのです。私たちが、たえず塩気を保つためにも、一人一人がしっかりイエス様の交わりのうちに留まらなくてはいけないのです。 

出て行くことと、留まることは、表裏一体です。どちらが欠けても、塩気は保てません。 



あなたがたは、地の塩です。
もし塩が塩けをなくしたら、
何によって塩けをつけるのでしょう。
もう何の役にも立たず、外に捨てられて、
人々に踏みつけられるだけです。
マタイ5章13節

地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。
創世記12章3節





2013年5月9日木曜日

その18 「執事(役員)の働き」 使徒6章、Ⅰテモテ3章

今回は「執事の働き」についてともに学びたいともいます。第6回に「牧師とは」と題して学びましたが、新約時代の教会は、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる役割の人々がおりました(エペソ4:11-16)。今日の日本の教会では、牧師がそれらの働きを一手にカバーしている場合が多いのですが、その役割は大きく二つまとめることができます。それは「みことばを解き明かし」「聖徒たちを整えること」です。加えて前回は登場しませんでしたが、教会には他にも「長老(監督)」とか「執事」と呼ばれる働きがあります。これらの働きは、教会が成長するに従って、使徒たちが諸教会を巡回し、不在の間も、教会を継続して牧会するために発展していきました。先ほど話した「みことばを解き明かし」「聖徒たちを整える」働きは、主に「長老(監督)」に引き継がれていきました(長老教会では、長老が更に「宣教長老」と「治会長老」に分かれており、前者がいわゆる牧師で、後者は信徒が担っています)。そして、よりきめ細やかな牧会をするために必要とされたのが「執事」の働きです。私たちの教会では、この執事の働きを「役員」と呼んでいます。聖書に「役員」という働きは登場しませんが、法律(宗教法人)上、執事をそのように呼んでいるのです。今日はこの執事(役員)の働きについて学びましょう。

初代教会の初めの執事は7人でした(使徒6章)。教会が成長するにつれ、教会の働きも広がり、複雑化していきました。これは必ずしも悪いことではありません。人が集まるところ、当然、問題も起こるものです。大切なのはその問題をどう解決するかです。ここで登場している問題は、やもめたちに対する配給の問題でした。当時の教会は、一人では生活できないやもめたちの生活を支えていました。しかしその中でどうやら、ヘブル語を話すやもめたちの方が、ギリシャ語を話すやもめたちよりも、優先されていたらしいのです。分かりやすく言えば、地元の人優先だったということでしょうか。でも食べ物のことですから、そんな簡単に「ああそうですか」とはいきません。しかも「弟子たちが増えるにつれ」とありますから、やもめの数もどんどん増え、使徒たちにしてみれば、資金面でも今後どうやりくりしたらいいのか、まさに頭の痛い問題でした。 

でも一番、使徒たちを悩ませていたのは、祈りとみことばの奉仕に時間をとれないことでした。そこで彼らはこう提案しました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」これが執事の働きなのです。今日でいうと、牧師が「祈りとみことば」の奉仕に専心できるよう、その奉仕の尊さを理解し、その他の業務を担い、支え、協力する存在なのです。具体的には「研修などへの派遣、プライバシーの確保、経済的理解、健康や休養などへの配慮なども含まれます(クリスチャン生活百科)」。役員は信徒の意見を代表する人だという意見もありますが、それが第一の目的ではありません。むしろ教会全体にみことばが正しく伝わるよう整える人なのです。教会は人の意見ではなく、みことば中心で動きます。 

執事の働きは単なる「実務」だけでもありません。その基準に「御霊と知恵に満ちた」とあるように「これは霊的な働き」なのです。やもめの食事の配給といった、作業を上手に出来ればよいというのではなく、ステパノのようにいざとなったら「福音を語り、霊的な判断の出来る人」でなければいけません。テモテ第一3章8-13節にはこうあります。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単なる実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。こう言われるとプレッシャーですか?もしそうならイエス様は、大失敗を経験し、自信を喪失していたペテロに「ご自分の羊を任された」ことを思い出してください(ヨハネ21章)。選挙で選ばれても、自分は相応しくないと思うなら、そんなあなたにこそ、ぜひ引き受けてほしいのです。 

執事(役員)は選挙によって選ばれますが、あなたはどのような思いで投票していますか?イエス様は12弟子を選ばれる際、徹夜の祈り捧げられました(ルカ6:12)。選挙は単なる人気投票ではありません。恐れと信仰を持って一票を投じましょう。そしてその結果を「みこころ」として受け止め、従いましょう。 



というのは、
執事の務めをりっぱに果たした人は、
良い地歩を占め、
また、キリスト・イエスを信じる信仰について

強い確信を持つことができるからです。
Ⅰテモテ3章13節



そこで、兄弟たち。
あなたがたの中から、
御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちを
この仕事に当たらせることにします。
使徒6章3節





2013年4月24日水曜日

その17 「パンを裂く群れ」 Ⅰコリント11章17-34節

前回は「礼拝する群れ」と題し、こう学びました。「初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らが『週の初めの日(日曜日)』に礼拝をもっていたことが分かります。イエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は仕事が終わってから、夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会をともにし、賛美をし、使徒たちの教えに耳を傾け、パンを裂く聖餐式をもっていました」。今日はこのパンを裂く「聖餐式」にフォーカスを絞りたいと思います。

初代教会の聖餐式は神聖なものでした。彼らは「主日の夜」、仕事の帰りにそのまま駆けつける者が多かったのでしょうか、兄弟姉妹の家に集まり、まずアガペー(主の愛)と呼ばれる食事会(今日の愛餐会)から始めました。そして落ち着いてきたころ、使徒たちの教えに耳を傾け、最後に改めてパンとぶどう酒を用意し、一つのパンを裂き一つの杯を回し飲みするという「聖餐式」を行っていました。この「一つのパンと一つの杯」には「私たちは同じ一つのキリストのからだに属する兄弟姉妹である」という意味も込められていました(Ⅰコリント10:17)。またその聖餐式には、キリストの十字架を覚えその死を告げ知らせる、大切な意味がありました。このように本来の聖餐式は、神聖な式であり、貧しい者や飢えている者への思いやりと愛に満ちていました。そこに集う者は、誰もが、「心」も「体」も満たされて、帰途につくことができたのです。 

しかし少しずつその形が崩れはじめました。福音が世界に広がるなかで、聖餐式も伝わったものの、その本質は次第に見失われていきました。彼らは、兄弟姉妹の中でも、特に裕福で社会的に力のある信徒の家に集まるようになりました。そして立場のある信徒は、特別な部屋に通し、先に食事を提供し、上等なぶどう酒をふるまいました。しかし貧しい信徒は、粗末な部屋に通し、質の低い料理とぶどう酒をふるまったのです。そして会話の内容も「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」といった分裂分派の議論だったり、「パウロ先生の話し方はなってない(Ⅱコリント10:10)」など働き人の批評など、時には、その場にいない他の信徒の噂話なども加わり、くだらない話題が、文字通り「酒のつまみ」となり、酔っ払っている者もいるしまつでした。こうして本来の聖さは失われ、この世の交わりと何ら変わらない(もしくはそれ以下の)、世俗的な交わりが出来上がりました。そこに集っても心は満たされず、むしろ不快になり、貧しい者たちは、惨めさを噛みしめながら帰らなければならなりませんでした(Ⅰコリント11:17-22)。 

もう一度、本来の姿を取り戻しなさい!パウロはこう言います。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです(23)」。つまり言い方を変えれば、もう一度イエス様から受けた本来の聖餐式に戻りなさいと言われているのです。本来の聖餐式は、私たちのために血を流された、イエス様の十字架を偲ぶ神聖なひと時です(24-26)。また「一つのパンから食べ、一つの杯から飲む」というのは「同じ一つのキリストのからだに属する兄弟姉妹である」ことを確認し、公に告白することでした。そういう意味において、私たちはもう一度、自分自身を吟味しなければいけないのです(28)。私たちはこの箇所を、自分自身に罪はないか、吟味し、悔い改めてから、主の前に出ると理解します。それも大切ですが、もっと身近な意味が含まれています。その直後に「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります(29)」とありますが、この「みからだ」とは、イエス様のからだのことです。また「わきまえる」とは「正しく判断する」という意味。つまり「教会はイエス様のからだであるのに、自分勝手な好き嫌いでズタズタに引き裂いてはいけない。ひとつとなりなさい!そういう正しい判断をしないで聖餐式に臨むならば、その飲み食いが自分にさばきをもたらす」とも戒められているのです。 

あなたが罪を犯さなければそれで良いのではありません。助けを必要としている人や、仲間外れにされている人がいるのに、何とも思わず自分だけ恵みに預かるなら、その飲み食いが自分にさばきをもたらすのです。寂しい思いで教会から帰らなければいけない人はいませんか?その人にあなたは何ができますか? 



したがって、もし、ふさわしくないままで
パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、
主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、
そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。(28)

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、
その飲み食いが自分をさばくことになります。(29)

Ⅰコリント11章27-29節 



2013年4月17日水曜日

その16 「礼拝する教会」 使徒20章5-12節 コロサイ2章20-23節


前回は「学ぶ教会」と題して学びました。しかし聖書にはこうあります。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます(Ⅰコリント8:1)」また「文字は殺し、御霊は生かす(Ⅱコリント3:6)」とも。このように間違った学びはかえって「有害」となります。しかし本当の学びは、まず「聞くこと」に始まると教えられました。それはもちろん、まず御言葉に聞くことであり、同時に、御言葉を解き明かす教師からも、教えられやすい心を持つことでもあります。このように、真の学びは、神と人に対する謙遜につながるのです。もとより、日本語の「学ぶ」には「師をまねる、まねぶ」から来ているとも言われます。同じようなことが、今日のテーマ「礼拝」にも言えます。

初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らは「週の初めの日(日曜日)」に礼拝を持っていたことが分かります。それはイエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで、日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は、早朝や夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会と聖餐式を持ち、賛美をし、教えに耳を傾けていました。パウロがトロアスを訪ねた時も、既に救われていた人々がパンを裂くために集まって来ました。その中にユテコという青年もいました。彼は仕事を終えてから、やっとの思いで駆けつけたのかもしれません。しかしパウロの話しがあまりにも長く続くので、ウトウトしてしまい、なんと三階の窓から下に落ちてしまいました。衝撃の「居眠り落下事件」です!しかしパウロは彼を抱きかかえてこう言います「心配することはない。まだいのちがあります」。そして生き返った彼とともに朝まで集会を続け、青年ユテコを家まで送り届け、慰められて別れるのです。この出来事はひとつの象徴です。それは礼拝に集う人々が経験していた、魂の再生(よみがえり)です。「屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった(20:8)」とありますが、礼拝を捧げる彼らの存在は、いのちの灯台として、この町を明るく照らしていたでしょう。

しかし人間はこの礼拝を好き勝手に変えてしまいます。コリント教会では、前回も話しましたが、礼拝がまるで「賜物発表会」のようになり「みんな私の賜物見て~」と言わんばかりに騒々しくガチャガチャになってしまいました。他方、コロサイ教会では、礼拝がやたらに儀式的でガチガチになり、自由がなく、イエス様ではなく天使を礼拝する異端(神秘主義)に陥ってしまいました。パウロはそのような礼拝を「人間の好き勝手な礼拝(コロサイ2:23)」と呼んでいます。人間の好き勝手にすると、やたら賑やかになったり、やたら伝統的で堅苦しくなったり、または、聖書の教えから外れてしまったりするのです。聖書はこう教えています。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです(ヨハネ4:23)」。「霊」とは聖霊のこと、「まこと」とは真理の御言葉のこと。聖霊の働かれるところには「自由」があります。しかし真の礼拝には、自由とともに、しっかりとした御言葉の説き明かしがあるのです。この両者のバランスが大切です。

私たちはイエス様ご自身から招かれています。イエス様はこう語られています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます(マタイ11:28-29)」。つまり真の礼拝とは、このイエス様の招きに応え、疲れた心を癒され、復活のいのちに満たされ、新しい一週間を始める時なのです。そして「一方的な恵み」を受けながら、少しずつ礼拝を、「捧げる者」へと成長させられていくのです。礼拝は本来、受けるものではなく、捧げるものです。何をささげるのか?私たちの心からの祈りと賛美、そして「私たち自身」です。それに加え「わたしから学びなさい(注2)」と言われているように、御言葉を聞いたら、自らを打ちたたいて、その御言葉に従わせていくことも大切です(Ⅰコリント9:27)。こうした礼拝を捧げる時、私たちの顔は礼拝堂に入る前と後とで違っています。なぜなら御言葉と御霊によって、新しく創り変えられるからです。

あなたは礼拝において、こういった「復活のいのち」を経験していますか?



彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(Ⅰサムエル1:18)

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34:5)






注1:ルカはユダヤ人のように日没から日没までを一日として数える仕方ではなく、ローマ人のように夜半から夜半までを一日として数える仕方をしている。なぜならこれはトロアスでの出来事だからである。つまりユテコの参加していた礼拝は、今日の「日曜の夜」のことを指している(F.F.ブルース)。

注2:「学びなさい(マセテ)」は、単に知的に学ぶという意味ではなく、模範から学びなさいという意味(BAG)。つまりイエス・キリストの人格(愛と義)に「まねぶ」ということ。

2013年4月11日木曜日

その15 「学ぶ群れ」 ローマ10章1-17節、Ⅰコリント15章1-5節

いままで「教会とは」と題し、「賛美する群れ」「祈る群れ」「話し合う教会」など、様々な角度から教会を見つめて来ました。そして今日のテーマは「学ぶ教会」です。今読んでいるこのテキストは、教会の聖書研究会のために書かれているものですが、これを読んでいる人は、学ぶ意欲の旺盛な人と言うことができるでしょう。元来クリスチャンは、よく学ぶ人たちです。クリスチャンはみんな頭がいいとか、頭がいい人しかクリスチャンになれないとか、そういうことを言っているのではありません。クリスチャンは、誠実に、福音を、まず聞こうとする人たちなのです。

外国人には、日本のクリスチャンがよく学ぶように見えるようです。加藤常昭師がこう書いています。「日本の教会を外国のキリスト者が訪ねて下さると、共通に言われますことの一つは、日本人というのは教会でもよく勉強をするということです。礼拝において、日本人たちは分厚い聖書を手元に置き、それを開きながら説教を聴きます。そして説教者が聖書を引用すると一斉にそれを開くのです。人によってはメモを取りながら聞いている。外国では必ずそうするわけではありません。その他にも、読書会や聖書研究会などなど…少なくとも今までの教会は、よく学ぶ教会でした(要約)」。確かに私たちの教会でも、もちろん礼拝には聖書を持参し、もっと知りたくなれば「信仰入門クラス」や「洗礼準備会」という機会が設けられています。洗礼を受けてからは「聖書研究会」や、最近では「リバーサイド聖書塾」など、学ぶ機会は十分に備えられています。

でもそのような姿勢は、だんだん失われつつあるように思われます。日本全国的に見ても、聖書研究会の参加人数は激減しています。忙しい現代人にとって、平日、教会に集うのが難しいのがその主たる理由ですが、原因はそれだけでしょうか。学びのスタイルも変化してきています。誰かから教えられるのではなく、自分たちで聖書を読み、思った事を自由に分かち合うスタイルが好まれます。日本だけではありません、世界的にもそのような傾向が見られます。つまり「学びたくない」「お話を聞くのはちょっと…」「そういう時間はなるべく短く」できれば「もっと自分がしゃべりたい」「自分も教えたい」「自分の賜物を活用したい」という時代なのでしょうか。積極的で自主的なのは良いのですが、それだけでは大切な何かが抜け落ちています。もちろん「話す(宣べ伝える、互いに教える)」ことも大切ですが、それと同時に「しっかり聞く姿勢を持つ」というのは、クリスチャンの「信仰の本質」に関わる事なのです。聖書にもこうあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)」。

「聞きたくない」という姿勢は、現代に始まったことではなく、人間に宿る罪の性質です。コリントの教会にその問題を見ることができます。彼らは、教師から御言葉の説き明かしを聞くより、自分の預言や異言といった賜物を、みんなの前で披露することに一生懸命でした。そして礼拝中であるにもかかわらず、次々に立ち上がって奇声のラッパを吹いていたのです(Ⅰコリント13-14章)。しかも彼らは、パウロから教えられた福音にとどまらず、「私たちはこう思う」「こっちの方が私たちにフィットする」と、復活の教えを削除し、福音を捻じ曲げてしまいました。そんな彼らに対してパウロはこう言っています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう (Ⅰコリント15:2 新共同訳聖書)」。つまり、よく聞かないで、うろ覚えした福音を自分なりに解釈し、一生懸命信じたとしても、それでは「信じたこと自体が、無駄になってしまう」というのです。感覚的な日本人には、厳しく聞こえるかもしれませんが、それくらい、まず、よく聞いて、その福音に留まることが大切だ、ということです(注1)。

あなたは「教えられやすい心」を持っていますか?耳は二つ、口はひとつ。まずはしっかり御言葉を聞いて、教えられることが大切です。そうして初めて、必要なことを、必要な人に、語ることができるのです。



熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
箴言19章2節

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、
非常に熱心にみことばを聞き、
はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。
その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。
使徒17章11-12節


また、もしあなたがたが
よく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。
Ⅰコリント15章2節









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注1:「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」が、新改訳聖書では「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら」と訳されています。これは「エイケー」というギリシャ語が「無駄に」とも「よく考えもしないで」とも訳される言葉だからです(BAG)。どちらに解釈したとしてもメッセージは同じです。「よく考えもしないで信じ、聞いた福音からそれていくならば、そのような信仰は神様の前に無駄だ」というわけです。