2013年5月29日水曜日

その21 「目には見えない教会?」 マタイ13章

前回はヨナ書から、このように教えられました。「ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのならば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。自分には直接関係のない海外の人々の救いのためにも、祈れるクリスチャンになりたいと思います。」今日は、世界大の教会(不可視的教会)と、各地に点在する地域教会(可視的教会)についてお話ししたいと思います。

いまさらながら教会って何でしょう?ある人々はこう言います。「聖書には『ふたりでも三人でも、わたし(イエス様)の名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)』と書いてある。だから、どこでもクリスチャンが、二人以上集まるなら、そこが『教会』なんだ」。そして実際にスモールグループそのものが教会だと主張し、思い思いの「教会」生活を送っているのです。そのような状態を「教会観がない」と言います。実は、そのような混乱は今に始まったことではありません。宗教改革が起こった時、ルター率いるプロテスタント教会は、カトリック教会という大きな傘(制度、組織)のもとを出ました。そして制度と儀式でガンジガラメになった教会を改革し「神の言葉があるところに信仰があり、信仰があるところに神の教会がある」と、「信仰」と「神の言葉」を土台とする本来の教会の姿を回復したのです。しかし、それを極端に解釈する人々が現れました。「急進派(ルターいわく熱狂主義者)」と呼ばれる人々は、御言葉さえ語られていれば「それが教会だ」と主張し、思い思いに教会を作り、絶え間ない分裂と対立という混乱を招いてしまったのです。それはルターが本来意図したことではありませんでした。

そこにジャン・カルバンがあらわれ、もう一度、教会というものを次のように定義しました。「教会とは①神の言葉が説教されているところであり、②サクラメント(洗礼式と聖餐式という聖礼典)が正しく施行(しこう)されているところです」。この定義には、それを支える「教会の制度(教会政治)」の理解も含まれています。教会は、制度や組織ではありませんが、秩序は存在します。パウロもこう書いています。「ただ、全てのことを適切に、秩序をもって行いなさい。(Ⅰコリント14:40)」つまりカルバンは、無秩序な教会形成をするのではなくプロセス(秩序)を大事にしなさいといっているのです。少しややこしいですが、私たちの教会で言うとこういうことです。地域教会の「会衆」によって「教会役員」が選ばれます。その教会役員の代表が「教団総会」に出席し、その教団総会において「教団役員会」が選ばれます。地域教会の牧師は①「牧師本人」の召しを尊重し②「教会役員会」によって招聘され③「教団役員会」が任職します。これを「三者合議」といいます。このようにして立てられた牧師を通して「聖礼典」と「御言葉の説教」がなされるのです。先にも言ったように「ややこしい」です。しかしこのようなプロセスを経て「権力の偏り」や「教理的誤り」、「教会のカルト化」を防ぎ、健全な「地域教会」を建て上げているのです。

それとは別に、不可視的教会という概念があります。不可視的とは、目には見えない、という意味です。つまり「現在、過去、未来、すべての聖徒からなる、完全にして、霊的な教会のこと」です。「公同(こうどう)の教会」ともいいます。使徒信条の中で「われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会」といいますが、そのことです。この公同の教会は、キリストの再臨の時に完成します。エペソ人への手紙に「(イエス様が終わりの日に)しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる(5:27)」とある通りです。しかし地上の教会は、完全ではありません。完璧な制度(教会政治)もありません。上記のように、完全である努力はしていますが、多くの問題もあります。イエス様の「毒麦のたとえ話(マタイ13章)」はそのことを言っています。時には本当に救われているのか、首をかしげたくなることもあるのかもしれません。でもイエス様はこう言われます。「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。(30)」毒麦を抜くことは私たちの仕事ではありません。私たちの目の方が曇っていて、その人は、本当は正しいことを言っているのかもしれません。また悪意があったとしても、神様はその人の悪意さえも用いて、ご自分の目的を達成することができるお方です(箴言16:4)。毒麦は御使いに任せましょう(41)。私たちの仕事は、時が良くても悪くても、福音の種を撒き、愛する兄弟姉妹とともに、この地上にキリストのからだなる教会を建て上げていくことなのです。

公同の教会の一員として、天の完全な交わりを夢見ながら、地上の教会に仕えて行きましょう。



だが、主人は言った。
「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、
 麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 
 だから、収穫まで、
 両方とも育つままにしておきなさい。」
マタイ13章29-30節(要約)

キリストが教会を愛し、
ご自身をささげられたのは、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、
ご自分の前に立たせるためです。
エペソ5章25-27節(要約)




2013年5月23日木曜日

その20 「世界に出ていく教会」 ヨナ1-4章

前回は「地の塩としての教会」と題し、このように学びました。「クリスチャンと教会に対する、神様の約束の土台となっているのが、アブラハム契約です(創世記12:1-3)。…そして私たちはイエス様の十字架によって、この契約の相続人とされているのです(ガラテヤ3:14,29)。すなわち①もし私たちが偶像礼拝と古い生き方を離れ、天の都を目指し、キリストに従って新しい人生を始めるなら。②主は私たちを大いなる共同体(教会)の一員とし、祝福してくださる。③その祝福は教会を通して、全世界にもおよぶ。」そこで今日は「世界に出て行く教会」と題して学びます。

意外かもしれませんが、旧約聖書のヨナ書から「世界宣教」について教えられたいと思います。ヨナはある時、神様からこの命じられます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ(2)。」つまり神のさばきを宣告し、悔い改めを呼び掛けよ、というわけです。しかし彼はその命令に激しく抵抗します。「ヨナは、主の御顔を避けてタルシュシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った(3)。」タルシュシュとはイザヤ書に「わたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない(66:19)」と言われている、いわば「地の果て」です。そこまで逃げて行きたいほど、ヨナにとってニネベ行きは考えられないことだったのです。なぜでしょう?それはニネベがアッシリヤという国の首都であったからです。アッシリヤは常にイスラエルを脅かし、後に北イスラエル王国を滅ぼすことになる、言わば「敵国」です。そんな国のため働きたくないというのは、ある意味当然の反応なのかもしれません。しかし彼はその結果、魚に飲み込まれ、三日三晩ただよい、苦しみもだえながら悔い改めへと導かれるのでした(2章)。そしてニネベに行って、主のことばを宣べ伝えました(3章)。

その結果、ニネベの町は悔い改め、救われました。ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせました。彼は怒ってこう祈りました。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから(4:3)。」そして諦められず、なおも、今か今かと「さばき」を待ち続けていたのです(5)。神様はそんなヨナの頭上にトウゴマ生えさせ、その葉によって日陰を与えられました。しかし喜びも束の間、翌日の夜明け前に、その葉は虫に食われて枯れてしまったのです。そこで彼はまたもやこう言います。「生きているより死んだ方がましだ(8)」。主はこの一連の出来事を通して、彼に「一方的な主の恵み」を教えようとされているのです。主はこう仰せられました。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか(10-11)。」つまりヨナは自分も主に背き、一方的な恵みによって、赦され、生かされた者として、どうして同じように他の罪人が赦され、生かされることを喜べないのか」と問われているのです。

主は私たちにも「ニネベに行きなさい」と命じています。それは右も左もわきまえず、神に背いて生きている人々のことかもしれません。神様は私たちクリスチャンと同じくらい、未信者の事も愛しておられます。「自分たちだけの神様」だと思ってはなりません。神様は全ての人の主です!またあなたにとってのニネベは、文字通りの外国かもしれません。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)。」これはお勧めではなく、大宣教「命令」です。あなたは言うかもしれません。「いいえ、行きたくありません。大宣教命令は私個人ではなく『教会』に与えられている命令ではありませんか。」確かにその通りです。でももしそうなら、あなたは祈りによって、経済的にも、教会の海外宣教を支えていますか?またある方は「日本にはクリスチャンが1%もいないのにどうして外国ですか」と思うかもしれません。でも大宣教命令が与えられた時、イスラエルに1%のクリスチャンがいたでしょうか?あなたがこの命令に従わない理由は何でしょう。ヨナは自国中心の排他思想を持っていましたが、もし私たちが、自分の国、自分の家族、自分の教会の祝福だけしか祈らないのであれば、ヨナと同じではありませんか。愛の反対は、憎しみではなく無関心です。神様は、彼らのことも愛し、あなたと一緒に彼らにも恵みと祝福を届けたいと願っておられるのです。

あなたのニネベはどこですか? 
無関心を超えて、海外宣教のためにも祈るクリスチャンになろう。


「これで私は、はっきりわかりました。
 神はかたよったことをなさらず、

 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、
 正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
 このイエス・キリストはすべての人の主です。」

使徒10章34-36節(抜粋)





2013年5月15日水曜日

その19 「地の塩としての教会」 創世記12章1-3節

前回は「執事の働き」について学びました。Ⅰテモテには、その執事の基準としてこうありました。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単に実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。加えて、その直前の「監督」の条件にはこうあります。「また、教会外の人々にも、評判の良い人でなければいけません。(Ⅰテモテ3:7)」教会の中で評判が良いだけでは不十分で、この世の中での評判も大事だということです。なぜなら教会とは、当然、この世の中でも存在しているからです。そこで今回は「地の塩としての教会」と題して学びます。

教会は「この世に対する祝福の通り良き管」です。クリスチャンと教会に対する、神様の約束の土台となっているのが、アブラハムに対する契約です。そこには大きく三つのことが記されています(創世記12:1-3)。①「あなたは、あなたの故郷、父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」②「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名は祝福となる」③「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。私たちはイエス様の十字架によって、この契約の相続人とされています(ガラテヤ3:14,29)。すなわち①「もし私たちが偶像礼拝と古い生き方を離れ、天の都を目指し、キリストに従って新しい人生を始めるなら」②「主は私たちを大いなる共同体(教会)の一員とし、祝福してくださる」③「またその祝福は教会を通して、地域にもおよぶ。」まさに、岐阜リバーサイドチャーチのビジョンにある通りです。「いのちの水が、あふれ、流れ、すべての民を、生かし、いやす。」これが神様からの約束です! 

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです(Ⅰペテロ3:9)」。このことを忘れてはいけません。何度も言いますが、私たちは、自分たちだけが幸せになるために救われたのではありません。私たちを通して、周りの人々も、家族だけではなく、地域の人々にも祝福がおよぶために「通り良き管(くだ)」として召されているのです。パリサイ人たちはこの契約を勘違いし、恵みを独占しようとし、良くない意味での選民意識におちいり、異邦人や罪人との接触をことごとく避けました。その結果どうなったでしょうか?「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い(マタイ10:39)」とあるように、彼らはその祝福を失ってしまったのです。何と皮肉なことでしょう…。私たちも同じ間違いを繰り返してはいけません。間違った意味での霊的エリート意識は捨てなさい!むしろ、一方的な恵みを受け、救われた者として、この世の中に出て行って、溢れるばかりに与える者となりたいと思います。その時、この世の中の人々も教会の存在に気付き、その惜しまずに与える姿に、イエス・キリストの十字架の愛を見るのではないでしょうか。 

「あなたがたは、地の塩です(マタイ5:13)」。塩の役割は腐敗防止です。また料理の中に少量加えるだけで、素材の味を引き立てます。クリスチャンもそんな存在です。数の問題ではなく、どんなに少なくても、この世の中に出て行く時、そのクリスチャンの存在が、この世の中に少なくないインパクトを与えるのです。しかし塩が塩だけで固まっていても、その役割は果たされません。聖書にはこうあります。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)」ある方は、次の聖書の言葉を取り上げて反論するかもしれません。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(Ⅰヨハネ2:15)」確かにそうです。私たち一人一人は誘惑に負けやすい。ミイラ取りがミイラになってしまう可能性はあります。だから教会が必要なのです。私たちが、たえず塩気を保つためにも、一人一人がしっかりイエス様の交わりのうちに留まらなくてはいけないのです。 

出て行くことと、留まることは、表裏一体です。どちらが欠けても、塩気は保てません。 



あなたがたは、地の塩です。
もし塩が塩けをなくしたら、
何によって塩けをつけるのでしょう。
もう何の役にも立たず、外に捨てられて、
人々に踏みつけられるだけです。
マタイ5章13節

地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。
創世記12章3節





2013年5月9日木曜日

その18 「執事(役員)の働き」 使徒6章、Ⅰテモテ3章

今回は「執事の働き」についてともに学びたいともいます。第6回に「牧師とは」と題して学びましたが、新約時代の教会は、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる役割の人々がおりました(エペソ4:11-16)。今日の日本の教会では、牧師がそれらの働きを一手にカバーしている場合が多いのですが、その役割は大きく二つまとめることができます。それは「みことばを解き明かし」「聖徒たちを整えること」です。加えて前回は登場しませんでしたが、教会には他にも「長老(監督)」とか「執事」と呼ばれる働きがあります。これらの働きは、教会が成長するに従って、使徒たちが諸教会を巡回し、不在の間も、教会を継続して牧会するために発展していきました。先ほど話した「みことばを解き明かし」「聖徒たちを整える」働きは、主に「長老(監督)」に引き継がれていきました(長老教会では、長老が更に「宣教長老」と「治会長老」に分かれており、前者がいわゆる牧師で、後者は信徒が担っています)。そして、よりきめ細やかな牧会をするために必要とされたのが「執事」の働きです。私たちの教会では、この執事の働きを「役員」と呼んでいます。聖書に「役員」という働きは登場しませんが、法律(宗教法人)上、執事をそのように呼んでいるのです。今日はこの執事(役員)の働きについて学びましょう。

初代教会の初めの執事は7人でした(使徒6章)。教会が成長するにつれ、教会の働きも広がり、複雑化していきました。これは必ずしも悪いことではありません。人が集まるところ、当然、問題も起こるものです。大切なのはその問題をどう解決するかです。ここで登場している問題は、やもめたちに対する配給の問題でした。当時の教会は、一人では生活できないやもめたちの生活を支えていました。しかしその中でどうやら、ヘブル語を話すやもめたちの方が、ギリシャ語を話すやもめたちよりも、優先されていたらしいのです。分かりやすく言えば、地元の人優先だったということでしょうか。でも食べ物のことですから、そんな簡単に「ああそうですか」とはいきません。しかも「弟子たちが増えるにつれ」とありますから、やもめの数もどんどん増え、使徒たちにしてみれば、資金面でも今後どうやりくりしたらいいのか、まさに頭の痛い問題でした。 

でも一番、使徒たちを悩ませていたのは、祈りとみことばの奉仕に時間をとれないことでした。そこで彼らはこう提案しました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」これが執事の働きなのです。今日でいうと、牧師が「祈りとみことば」の奉仕に専心できるよう、その奉仕の尊さを理解し、その他の業務を担い、支え、協力する存在なのです。具体的には「研修などへの派遣、プライバシーの確保、経済的理解、健康や休養などへの配慮なども含まれます(クリスチャン生活百科)」。役員は信徒の意見を代表する人だという意見もありますが、それが第一の目的ではありません。むしろ教会全体にみことばが正しく伝わるよう整える人なのです。教会は人の意見ではなく、みことば中心で動きます。 

執事の働きは単なる「実務」だけでもありません。その基準に「御霊と知恵に満ちた」とあるように「これは霊的な働き」なのです。やもめの食事の配給といった、作業を上手に出来ればよいというのではなく、ステパノのようにいざとなったら「福音を語り、霊的な判断の出来る人」でなければいけません。テモテ第一3章8-13節にはこうあります。「執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、…子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」このような基準があるのも、執事が単なる実務をする人ではなく「他の信徒の模範であり、霊的導き手となること」を期待されているからです。こう言われるとプレッシャーですか?もしそうならイエス様は、大失敗を経験し、自信を喪失していたペテロに「ご自分の羊を任された」ことを思い出してください(ヨハネ21章)。選挙で選ばれても、自分は相応しくないと思うなら、そんなあなたにこそ、ぜひ引き受けてほしいのです。 

執事(役員)は選挙によって選ばれますが、あなたはどのような思いで投票していますか?イエス様は12弟子を選ばれる際、徹夜の祈り捧げられました(ルカ6:12)。選挙は単なる人気投票ではありません。恐れと信仰を持って一票を投じましょう。そしてその結果を「みこころ」として受け止め、従いましょう。 



というのは、
執事の務めをりっぱに果たした人は、
良い地歩を占め、
また、キリスト・イエスを信じる信仰について

強い確信を持つことができるからです。
Ⅰテモテ3章13節



そこで、兄弟たち。
あなたがたの中から、
御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち七人を選びなさい。
私たちはその人たちを
この仕事に当たらせることにします。
使徒6章3節