2013年4月24日水曜日

その17 「パンを裂く群れ」 Ⅰコリント11章17-34節

前回は「礼拝する群れ」と題し、こう学びました。「初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らが『週の初めの日(日曜日)』に礼拝をもっていたことが分かります。イエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は仕事が終わってから、夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会をともにし、賛美をし、使徒たちの教えに耳を傾け、パンを裂く聖餐式をもっていました」。今日はこのパンを裂く「聖餐式」にフォーカスを絞りたいと思います。

初代教会の聖餐式は神聖なものでした。彼らは「主日の夜」、仕事の帰りにそのまま駆けつける者が多かったのでしょうか、兄弟姉妹の家に集まり、まずアガペー(主の愛)と呼ばれる食事会(今日の愛餐会)から始めました。そして落ち着いてきたころ、使徒たちの教えに耳を傾け、最後に改めてパンとぶどう酒を用意し、一つのパンを裂き一つの杯を回し飲みするという「聖餐式」を行っていました。この「一つのパンと一つの杯」には「私たちは同じ一つのキリストのからだに属する兄弟姉妹である」という意味も込められていました(Ⅰコリント10:17)。またその聖餐式には、キリストの十字架を覚えその死を告げ知らせる、大切な意味がありました。このように本来の聖餐式は、神聖な式であり、貧しい者や飢えている者への思いやりと愛に満ちていました。そこに集う者は、誰もが、「心」も「体」も満たされて、帰途につくことができたのです。 

しかし少しずつその形が崩れはじめました。福音が世界に広がるなかで、聖餐式も伝わったものの、その本質は次第に見失われていきました。彼らは、兄弟姉妹の中でも、特に裕福で社会的に力のある信徒の家に集まるようになりました。そして立場のある信徒は、特別な部屋に通し、先に食事を提供し、上等なぶどう酒をふるまいました。しかし貧しい信徒は、粗末な部屋に通し、質の低い料理とぶどう酒をふるまったのです。そして会話の内容も「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」といった分裂分派の議論だったり、「パウロ先生の話し方はなってない(Ⅱコリント10:10)」など働き人の批評など、時には、その場にいない他の信徒の噂話なども加わり、くだらない話題が、文字通り「酒のつまみ」となり、酔っ払っている者もいるしまつでした。こうして本来の聖さは失われ、この世の交わりと何ら変わらない(もしくはそれ以下の)、世俗的な交わりが出来上がりました。そこに集っても心は満たされず、むしろ不快になり、貧しい者たちは、惨めさを噛みしめながら帰らなければならなりませんでした(Ⅰコリント11:17-22)。 

もう一度、本来の姿を取り戻しなさい!パウロはこう言います。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです(23)」。つまり言い方を変えれば、もう一度イエス様から受けた本来の聖餐式に戻りなさいと言われているのです。本来の聖餐式は、私たちのために血を流された、イエス様の十字架を偲ぶ神聖なひと時です(24-26)。また「一つのパンから食べ、一つの杯から飲む」というのは「同じ一つのキリストのからだに属する兄弟姉妹である」ことを確認し、公に告白することでした。そういう意味において、私たちはもう一度、自分自身を吟味しなければいけないのです(28)。私たちはこの箇所を、自分自身に罪はないか、吟味し、悔い改めてから、主の前に出ると理解します。それも大切ですが、もっと身近な意味が含まれています。その直後に「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります(29)」とありますが、この「みからだ」とは、イエス様のからだのことです。また「わきまえる」とは「正しく判断する」という意味。つまり「教会はイエス様のからだであるのに、自分勝手な好き嫌いでズタズタに引き裂いてはいけない。ひとつとなりなさい!そういう正しい判断をしないで聖餐式に臨むならば、その飲み食いが自分にさばきをもたらす」とも戒められているのです。 

あなたが罪を犯さなければそれで良いのではありません。助けを必要としている人や、仲間外れにされている人がいるのに、何とも思わず自分だけ恵みに預かるなら、その飲み食いが自分にさばきをもたらすのです。寂しい思いで教会から帰らなければいけない人はいませんか?その人にあなたは何ができますか? 



したがって、もし、ふさわしくないままで
パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、
主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)

ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、
そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。(28)

みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、
その飲み食いが自分をさばくことになります。(29)

Ⅰコリント11章27-29節 



2013年4月17日水曜日

その16 「礼拝する教会」 使徒20章5-12節 コロサイ2章20-23節


前回は「学ぶ教会」と題して学びました。しかし聖書にはこうあります。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます(Ⅰコリント8:1)」また「文字は殺し、御霊は生かす(Ⅱコリント3:6)」とも。このように間違った学びはかえって「有害」となります。しかし本当の学びは、まず「聞くこと」に始まると教えられました。それはもちろん、まず御言葉に聞くことであり、同時に、御言葉を解き明かす教師からも、教えられやすい心を持つことでもあります。このように、真の学びは、神と人に対する謙遜につながるのです。もとより、日本語の「学ぶ」には「師をまねる、まねぶ」から来ているとも言われます。同じようなことが、今日のテーマ「礼拝」にも言えます。

初代教会の礼拝は素朴なものでした。使徒の働きを読む時、彼らは「週の初めの日(日曜日)」に礼拝を持っていたことが分かります。それはイエス様が日曜日の朝によみがえられたからです。キリスト教がローマの国教とされるまで、日曜日は普通の日でしたから、クリスチャン達は、早朝や夕方に集まって礼拝していたと考えられます。彼らは愛餐会と聖餐式を持ち、賛美をし、教えに耳を傾けていました。パウロがトロアスを訪ねた時も、既に救われていた人々がパンを裂くために集まって来ました。その中にユテコという青年もいました。彼は仕事を終えてから、やっとの思いで駆けつけたのかもしれません。しかしパウロの話しがあまりにも長く続くので、ウトウトしてしまい、なんと三階の窓から下に落ちてしまいました。衝撃の「居眠り落下事件」です!しかしパウロは彼を抱きかかえてこう言います「心配することはない。まだいのちがあります」。そして生き返った彼とともに朝まで集会を続け、青年ユテコを家まで送り届け、慰められて別れるのです。この出来事はひとつの象徴です。それは礼拝に集う人々が経験していた、魂の再生(よみがえり)です。「屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった(20:8)」とありますが、礼拝を捧げる彼らの存在は、いのちの灯台として、この町を明るく照らしていたでしょう。

しかし人間はこの礼拝を好き勝手に変えてしまいます。コリント教会では、前回も話しましたが、礼拝がまるで「賜物発表会」のようになり「みんな私の賜物見て~」と言わんばかりに騒々しくガチャガチャになってしまいました。他方、コロサイ教会では、礼拝がやたらに儀式的でガチガチになり、自由がなく、イエス様ではなく天使を礼拝する異端(神秘主義)に陥ってしまいました。パウロはそのような礼拝を「人間の好き勝手な礼拝(コロサイ2:23)」と呼んでいます。人間の好き勝手にすると、やたら賑やかになったり、やたら伝統的で堅苦しくなったり、または、聖書の教えから外れてしまったりするのです。聖書はこう教えています。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです(ヨハネ4:23)」。「霊」とは聖霊のこと、「まこと」とは真理の御言葉のこと。聖霊の働かれるところには「自由」があります。しかし真の礼拝には、自由とともに、しっかりとした御言葉の説き明かしがあるのです。この両者のバランスが大切です。

私たちはイエス様ご自身から招かれています。イエス様はこう語られています。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます(マタイ11:28-29)」。つまり真の礼拝とは、このイエス様の招きに応え、疲れた心を癒され、復活のいのちに満たされ、新しい一週間を始める時なのです。そして「一方的な恵み」を受けながら、少しずつ礼拝を、「捧げる者」へと成長させられていくのです。礼拝は本来、受けるものではなく、捧げるものです。何をささげるのか?私たちの心からの祈りと賛美、そして「私たち自身」です。それに加え「わたしから学びなさい(注2)」と言われているように、御言葉を聞いたら、自らを打ちたたいて、その御言葉に従わせていくことも大切です(Ⅰコリント9:27)。こうした礼拝を捧げる時、私たちの顔は礼拝堂に入る前と後とで違っています。なぜなら御言葉と御霊によって、新しく創り変えられるからです。

あなたは礼拝において、こういった「復活のいのち」を経験していますか?



彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。(Ⅰサムエル1:18)

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34:5)






注1:ルカはユダヤ人のように日没から日没までを一日として数える仕方ではなく、ローマ人のように夜半から夜半までを一日として数える仕方をしている。なぜならこれはトロアスでの出来事だからである。つまりユテコの参加していた礼拝は、今日の「日曜の夜」のことを指している(F.F.ブルース)。

注2:「学びなさい(マセテ)」は、単に知的に学ぶという意味ではなく、模範から学びなさいという意味(BAG)。つまりイエス・キリストの人格(愛と義)に「まねぶ」ということ。

2013年4月11日木曜日

その15 「学ぶ群れ」 ローマ10章1-17節、Ⅰコリント15章1-5節

いままで「教会とは」と題し、「賛美する群れ」「祈る群れ」「話し合う教会」など、様々な角度から教会を見つめて来ました。そして今日のテーマは「学ぶ教会」です。今読んでいるこのテキストは、教会の聖書研究会のために書かれているものですが、これを読んでいる人は、学ぶ意欲の旺盛な人と言うことができるでしょう。元来クリスチャンは、よく学ぶ人たちです。クリスチャンはみんな頭がいいとか、頭がいい人しかクリスチャンになれないとか、そういうことを言っているのではありません。クリスチャンは、誠実に、福音を、まず聞こうとする人たちなのです。

外国人には、日本のクリスチャンがよく学ぶように見えるようです。加藤常昭師がこう書いています。「日本の教会を外国のキリスト者が訪ねて下さると、共通に言われますことの一つは、日本人というのは教会でもよく勉強をするということです。礼拝において、日本人たちは分厚い聖書を手元に置き、それを開きながら説教を聴きます。そして説教者が聖書を引用すると一斉にそれを開くのです。人によってはメモを取りながら聞いている。外国では必ずそうするわけではありません。その他にも、読書会や聖書研究会などなど…少なくとも今までの教会は、よく学ぶ教会でした(要約)」。確かに私たちの教会でも、もちろん礼拝には聖書を持参し、もっと知りたくなれば「信仰入門クラス」や「洗礼準備会」という機会が設けられています。洗礼を受けてからは「聖書研究会」や、最近では「リバーサイド聖書塾」など、学ぶ機会は十分に備えられています。

でもそのような姿勢は、だんだん失われつつあるように思われます。日本全国的に見ても、聖書研究会の参加人数は激減しています。忙しい現代人にとって、平日、教会に集うのが難しいのがその主たる理由ですが、原因はそれだけでしょうか。学びのスタイルも変化してきています。誰かから教えられるのではなく、自分たちで聖書を読み、思った事を自由に分かち合うスタイルが好まれます。日本だけではありません、世界的にもそのような傾向が見られます。つまり「学びたくない」「お話を聞くのはちょっと…」「そういう時間はなるべく短く」できれば「もっと自分がしゃべりたい」「自分も教えたい」「自分の賜物を活用したい」という時代なのでしょうか。積極的で自主的なのは良いのですが、それだけでは大切な何かが抜け落ちています。もちろん「話す(宣べ伝える、互いに教える)」ことも大切ですが、それと同時に「しっかり聞く姿勢を持つ」というのは、クリスチャンの「信仰の本質」に関わる事なのです。聖書にもこうあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです(ローマ10:17)」。

「聞きたくない」という姿勢は、現代に始まったことではなく、人間に宿る罪の性質です。コリントの教会にその問題を見ることができます。彼らは、教師から御言葉の説き明かしを聞くより、自分の預言や異言といった賜物を、みんなの前で披露することに一生懸命でした。そして礼拝中であるにもかかわらず、次々に立ち上がって奇声のラッパを吹いていたのです(Ⅰコリント13-14章)。しかも彼らは、パウロから教えられた福音にとどまらず、「私たちはこう思う」「こっちの方が私たちにフィットする」と、復活の教えを削除し、福音を捻じ曲げてしまいました。そんな彼らに対してパウロはこう言っています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう (Ⅰコリント15:2 新共同訳聖書)」。つまり、よく聞かないで、うろ覚えした福音を自分なりに解釈し、一生懸命信じたとしても、それでは「信じたこと自体が、無駄になってしまう」というのです。感覚的な日本人には、厳しく聞こえるかもしれませんが、それくらい、まず、よく聞いて、その福音に留まることが大切だ、ということです(注1)。

あなたは「教えられやすい心」を持っていますか?耳は二つ、口はひとつ。まずはしっかり御言葉を聞いて、教えられることが大切です。そうして初めて、必要なことを、必要な人に、語ることができるのです。



熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。
箴言19章2節

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、
非常に熱心にみことばを聞き、
はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。
その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。
使徒17章11-12節


また、もしあなたがたが
よく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。
Ⅰコリント15章2節









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注1:「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」が、新改訳聖書では「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら」と訳されています。これは「エイケー」というギリシャ語が「無駄に」とも「よく考えもしないで」とも訳される言葉だからです(BAG)。どちらに解釈したとしてもメッセージは同じです。「よく考えもしないで信じ、聞いた福音からそれていくならば、そのような信仰は神様の前に無駄だ」というわけです。