2013年1月31日木曜日

その8「互いに建て上げられる」 コロサイ3章12-17節

前々回は「牧師の働き」そして前回はアクラとプリスキラの姿を通して「信徒の働き」について学びしました。そして私たちは、次のような結論に導かれました。「牧師と信徒との関係は、決して上下関係でも、従属関係でもありません。どちらかが倒れる時には、どちらかが支え、ともに手を取り合って福音を宣べ伝える『主にある同労者』なのです」。今回は、視点をもう少し変えて「兄弟姉妹」の関係について教えられたいと思います。主にある交わりの姿とは、どんな姿なのでしょうか?

まず最初に私たちは「赦し合う」べきです。聖書にはこうあります。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい(コロ3:13)」。特に「主があなたがたを赦してくださったように」とあることに注目したいと思います。私たちに赦す力なんてありません。「怒り」は「ねたみ」にも似ていて、相手のことを考えると、余計に相手に対する負の感情に支配されてしまうのです。私たち人間は、そのようにとても弱い存在です。でもイエス様は、そんな私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。そして一方的な愛と恵みのゆえに、私たちの罪を赦してくださったのです。決して「王に大きな負債を許されたのに、友人の小さな借金を許せなかったしもべ」のようになってはいけません(マタイ18:21-35)。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」との主の祈りを、実際に生きることが大切なのです。

でも「赦し合う」だけでは足りません。「互いに教え、互いに戒める」ことも大切です。聖書にはこうあります。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロ3:16)」。愛だけが強調されると、不正や罪でも赦し合ってしまう「なれあい」が生まれます。それは本当の愛ではありません。クリスチャンの交わりが、いつでも聖く、塩味の効いたものであるためには「互いに教え、戒める」という自浄(じじょう)作用が必要不可欠です。しかし、それは気づいたことを、何でも厳しく言えばよいというものではありません。まず大切なのは「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ることです。そして、もう一つは「神に愛されている者として、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け(コロ3:12)」ることです。御言葉に整えられず、自分勝手な感情で人を戒める時、「盲人が盲人の手引きをする」ように、二人とも穴に落ちて、大けがをしてしまうでしょう(マタイ15:14)。また、どんなに良いことを言っても、どんなに正しくても、愛がなければ何の役にも立たないのです。 

このように聖書においては「互いに」という姿勢が大切にされています。牧師をはじめとする教役者に「やってもらう」のが教会ではない。自分たちで「互いに、互いを、牧会する」姿勢こそ、本来の教会の姿なのです。これを「相互牧会」といいます。昔の話しになりますが、2009年に開催された第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が優勝した際、イチローがこんなことを話していました。「チームにはリーダーが必要だという、安易な発想があるが。一人一人がモチベーションと自覚をもって戦えば、そんなものはいらないということを今回のチームが証明してくれた」。教会においても、イチロー風に言えば、一人一人のモチベーションの高さが必要なのです。信徒だから責任がないのではなく、信徒も牧師も「同労者」として立ち上がる時、初めて「あらゆる国の人々を弟子とする(マタイ28:19)」という大宣教命令が実現可能となるのです。 

では、いっそのこと牧師はいらないのでしょうか?いいえ、その逆です。相互牧会が浸透すればするほど、牧師は本来の職務に集中できるようになります。それは「祈りとみことば」であり(使徒6:4)、「信徒を整えて奉仕に向かわせる」信徒教育の働きです(エペソ4:12)。このように、牧師は群れ全体に気を配り、細かいところは、信徒同志が互いに声を掛け合い、助け合う。そうして、ひとりも漏れることなく天の御国にたどり着けたら、それこそ最高ではないでしょうか。

無関心と自己中心の世の中にあって、教会こそがホッとする心のオアシスでありますように。私たちは全く違う者でありながら、キリストの十字架によって結び合わされた兄弟姉妹です。また同時に、少しずつ「兄弟姉妹にされていく」者でもあります。いきなり兄弟姉妹に完璧を求めるのではなく、焦らずゆっくり、愛の内に建て上げられていきましょう。


また、互いに勧め合って、
愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、
いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、
かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
(ヘブル10章24-25節)




2013年1月24日木曜日

その7「同労者」 使徒18章

前回は「牧師の働き」について学びました。私たちの、健全な教会生活と信仰の成長のためには、正しい牧師理解が必要不可欠です。牧師の働きにおいて特に大切なのは「みことばの説き明かし」です。そのことについてこう学びました。「ところで私たちは主日ごとの『みことばの説き明かし』をどのように聞いているでしょうか?『○○先生のお話し』という具合に『単なる先生の言葉』とか『個人的な見解』として聞いていないでしょうか?また『今日はおもしろかった』『今日の先生の服は?』と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は『人の言葉』ではなく『神の言葉』として聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません」。その他にも、聖徒たちを整えて奉仕(ミニストリー)に用いる働きについても学びました。今日は「信徒の働き」についてです。

牧師と信徒のあるべき関係とは何でしょうか?以前「万人祭司」について、こう学びました。「カトリック教会では、教皇がトップで、その下に司教や司祭がおかれ、信者は彼らの存在を通してでなければ正式には『罪の赦し』を受けられません。しかしプロテスタント教会では、誰でも、信仰によって、大胆に神様の前に出ることができ、罪の赦しを受けることができると教えています」。ただし「万人祭司」は「万人牧師」ではなく、「働きの違い」や「教会の秩序」は大切にしなければいけません。聖書には「みことばを解き明かす長老(監督)を尊敬するように」と教えられています。それは尊敬がなければ、解き明かされるみことばを「神の言葉」として聞くことができないからです(Ⅰテモテ5:17)。でも上下関係ではありません。昔、牧師に対して「平信徒」という表現が使われました。でもその理解は間違っています。牧師と信徒はあくまで同労者です。 

パウロの働きを助けた、アクラとプリスキラという夫婦がいました(使徒18章)。細かい理由はさておき、彼らは他のユダヤ人とともにローマを追放され、コリントに移り住んでいました。そこでパウロと出会います。回心については書かれていないので、おそらくローマで福音を聞き(もしくはエルサレムのペンテコステを体験し)クリスチャンになっていたのでしょう。彼らは天幕職人という「同業者」だったので、一緒に住んで働き始めました。それと同時に彼らはパウロの伝道を支える「同労者」となったのです。ここに本当に麗しい教役者と信徒との関係を見ます。それは「同労者」すなわち同じ目的を持ちながら、互いに支え合う、パートナーとしての姿です。 

彼らは信仰理解においても、教役者に引けを取りませんでした。先ほど話した「平信徒」は英語で「laymanレイマン」と言いますが「専門家ではない素人」という意味もあります。でもプリスキラとアクラは決して素人などではありませんでした。彼らは「雄弁なアポロが、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった(25)」ことに気付きました。すなわち聖霊理解が不十分であったのです。その時、彼らはどうしたでしょうか。「プリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した(26)」。私はここに感動します。公衆の面前でアポロを非難することなく、陰口を言って駆けだしの献身者をつぶしてしまうことなく、家に招いてそっと諭(さと)したのです。彼らは博学なアポロを納得させるに十分な知識と説得力を持っていました。しかしそれだけでなく、彼らは、教会と働き人への溢れる愛があったのです。(聞き入れたアポロも立派でした)。このように彼らは地道にパウロの働きを支え、彼がいなくなった後も、教会で重要な役割を果たし続けました。今も昔も、教会はこのように、献身的な信徒たちによって支えられているのです。 

後にパウロは手紙でこう書いています。「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです」(ロマ16:3-4)。彼らは最後まで、命がけで、パウロの宣教を支えました。更にこうともあります。「アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています」(Ⅰコリ16:19)。彼らはパウロを支えるだけでなく、自分たちの家を開放し「家の教会」のリーダーとなり、積極的に福音を宣べ伝えました。 

牧師と信徒との関係は、決して上下関係でも、従属関係でもありません。どちらかが倒れる時には、どちらかが支え、ともに手を取り合って福音を宣べ伝える「主にある同労者」なのです。 



「キリスト・イエスにあって
 私の同労者である
 プリスカとアクラによろしく伝えてください。
 この人たちは、
 自分のいのちの危険を冒して
 私のいのちを守ってくれたのです」
(ローマ16:3-4a)




2013年1月18日金曜日

その6「牧師の働き」 エペソ2章、4章

以前、このシリーズの第一回目に「この岩の上に」と題して、次のように語りました。「イエス・キリストこう話されました。『あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(マタイ16:18)』。でも、この『岩』とはいったい何のことでしょうか?それはその直前に記されているペテロの信仰告白のことです。彼は言いました『あなたこそ生ける神の御子キリスト(救い主)です(16:16)』。この『信仰』こそ、教会の土台なのです」。そこで今日は、この土台の上に、一体どのように教会を建て上げて行ったらよいのか、特に「牧師の働き」に注目して学びたいと思います。もちろん「信徒の働き」も学びます。それはまた次回のおたのしみ。

パウロは度々教会のことを建物に例えています。きっと彼が伝道者でありながら、天幕職人(皮や木で移動式住居を作る人)でもあったことから、それが身近なたとえだったのでしょう。その際彼はいつも土台がイエス・キリストであることを強調しています(Ⅰコリント3:11)。もう少し具体的に言えば、その土台とは、イエス様の語られた福音であり、イエス様の生きざま(人格と御業)であり、十字架と復活による罪の赦し(新生)の恵みのことです。このイエス・キリストと、彼を信じる信仰の上に、教会は建て上げられているのです。しかしエペソ2章20節にはこうともあります。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」。つまりイエス様が究極の土台(一番深いところにある礎石)であるとしながらも、「使徒と預言者」という土台の上に、教会が建て上げられているというのです。 

「使徒と預言者」とは何のことでしょう。私はなんとなく「使徒が新約聖書」で「預言者が旧約聖書」と思っていました。難しい説明は抜きにして、新約聖書とは「使徒的文章」であり、イエス様ご自身が旧約聖書のことを「預言者」と言われたことがあったからです(例 マタ22:40)。でも同じエペソ人への手紙の中にはしっかりと「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです(4:11)」と記(しる)されています。つまり「使徒と預言者」は、その時代の教会の中で、実際に、イエス様が救い主であることを宣べ伝え、救われた人がどのように生きて行けばよいのかを教えていた人たちのことだったのです。また教えられる人々は、彼らの語る言葉を「神の言葉」として受け入れ、その土台の上に教会を建て上げました。パウロ自身がこう書いています。「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです(Ⅰテサロニケ2:13 新共同訳)」。 

ところで私たちは「みことばの説き明かし」をどのように聞いているでしょうか?「○○先生のお話し」という具合に「人の言葉」として聞いていないでしょうか?「今日はおもしろかった」「今日の先生の服装は?」と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は「人の言葉」ではなく「神の言葉」として、聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません。牧師は牧師で「尊い神の言葉を取り次いでいる」という恐れをもって、よく準備し、祈り備えて、語らなければいけません。そうした土台がしっかりしている教会は「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮とされるのです(エペソ2:21-22)」。また「わたしたちは絶えず神に感謝しています」とある通り、解き明かしの栄光はすべて主のものです。説教者を過度に崇めるのは偶像礼拝です。 

それだけでも足りません。みことばを語ることしか強調しない牧師もありますが、牧師のもう一つの大切な働きは「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせること」です(4:12)。「させる」というと偉そうですが、御言葉によって聖徒を整え、賜物を見つけて、ふさわしい奉仕やミニストリーに用いることです。いってみれば、教会というチームの監督になり、個々を訓練し、教会全体を組織するのです。その際、監督は誰よりも謙遜でなければいけません(マコ10:43)。最近問題の体罰やパワハラなんてもってのほか。率先して、群れの模範となるべきです(Ⅰペテロ5:3)。 

牧師の大きな二つの働きは、「みことばを解き明かし」「聖徒を整えて用いること」です。あなたは牧師に期待すべきことを期待していますか?正しい期待が、お互いを大きく成長させます。



あなたがたは、
その割り当てられている人たちを支配するのではなく、
むしろ群れの模範となりなさい。
(Ⅰペテロ5章3節)