はじめに「議論好き」は深刻な「病気」です。マルコ8章と9章を見ると、実に様々な「議論」や「論争」が登場します。「相手を陥れるために、議論を吹っ掛けてみたり (8:11)」「相手に責任をなすりつけて、お前が悪いと言い張ってみたり(16)」「『できなかった』理由を並べて、自分の失敗をなんとか正当化しようとしたり(9:14)」「自分の方が偉いと、言葉の多さや、声の大きさで、相手を威圧してみたり(34)」。気をつけなさい!議論に勝っても、決してあなたは幸せにはなれません。「議論に勝って、人の心を失う」と言いますが、勝てば勝つほど、あなたは、むしろ孤立していくでしょう。そうすると、ますますエスカレートし、時には信仰(御言葉)さえも持ち出し、自分を正当化し、相手を悪者にし、攻撃するのです。すると、あなたはますます孤立していくでしょう。まさに悪循環です。議論で相手を変えることはできません。心に残るのは「うらみ」と「敵意」だけです。聖書にはこうあります。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ…絶え間のない紛争が生じるのです(Ⅰテモテ6:4-5)。
でも「話し合い」は大切です。成熟した共同体は、話し合いで問題を解決します。生まれたばかりの教会は、イスカリオテ・ユダの欠けを補うために「くじ」でマッテヤを選びました(使徒1:26)。しかし「やもめに関する議論」の際、弟子たちは「あなた方の中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人を7人選びなさい(使徒6:3)」と言いました。つまり「自分たちでよく祈って、みことばに照らし合わせ、話し合って解決しなさい」といったのです。もっと大きな問題になれば教会代表者たちによる話し合いが行われます。使徒15章に、異邦人が救われた際、彼らに割礼をほどこすべきか否かという、ユダヤ人にとっては避けては通れない難題にぶちあたりました。その際、彼らはどうしたでしょう?「鶴の一声」ならぬ「有力者の一声」で決めたでしょうか?いいえ、教会の代表者たちが集まり、会議を開き、激しく本音でぶつかり合いながら、答えを導きだしていったのです。これが有名な「エルサレム会議」です。よく「会議は不信仰だ」という人がいますが、そんなことはありません。そこに信仰があれば、会議は素晴らしいのです。
では「議論」と「話し合い」はどこが違うのでしょうか。基本的に良い会議には、互いに対する「尊敬」があります。聖書にもこうあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」。自己中心な議論は、自分のことしか考えていません。いかに、相手を攻撃し、黙らせ、打ち負かそうか、とばかり考えています。そして、自分の方が正しくて、賢くて、上に立っていることを、見せつけようとするのです。そこから生まれるのは、絶え間ない「争い」と「破壊」と「分裂」です。しかし、御霊に満ちあふれたクリスチャンには「相手の意見からも教えられたい」「みんなで主に示されたことを持ち寄って、より完全なキリストのからだを建て上げていきたい」という、神様と教会、そして兄弟姉妹に対する愛があるのです。なぜなら、そこには「イエス様はその人のためにも十字架にかかられた。その人の中にも主の御霊が宿っておられる」という敬意があるからです。でも残念なことに、教会での話し合いも「肉の議論」となってしまうことがあります。そうならないためにも、教会のリーダーを始め、一人一人が「御言葉と祈り」を中心に生きていなくてはなりません。御言葉も、読み方によっては凶器(きょうき)となります。「あの人、この人」ではなく、まず自分の心を吟味し、御前に悔い改めなさい。そこから「神の国」と「平和」が広がるのです。
言葉には二種類あります。一つは「教会を建て上げることば」もう一つは「教会を破壊する言葉」です。
これらのことを人々に思い出させなさい。
そして何の益にもならず、
聞いている人々を滅ぼすことになるような、
ことばについての論争などしないように、
神の御前できびしく命じなさい。
Ⅱテモテ2章14節