洗礼式の方法には大きく三つあります。その前に言葉の説明から。洗礼のことを教会では「バプテスマ」とも言います。これは「バプティゾー」というギリシャ語からきていて、その意味は「浸(ひた)す」です。その通り、最も一般的な方法は、全身をザブンと水に浸すやり方です。場所は、川や、教会の洗礼槽(そう)など様々ですが、共通しているのは、つま先から頭のてっぺんまで、完全に水に浸すことです。これが聖書に見られる、イエス様も受けられた洗礼のスタイルです。このスタイルを「浸礼(しんれい)」と言います。その他にも、牧師や司祭が指先を水に浸して受洗者の頭の上にチョンチョンと垂らす「滴礼(てきれい)」や、ポットや手のひらに水を汲んで頭のてっぺんに注ぐ「灌水礼(かんすいれい)」といったものもあります。大切なのは、頭のてっぺんから注ぐ(垂らす)ことです。それによって全身を水に浸した、としているのです。
実は、イエス様が現れる以前にも、洗礼は行われていました。聖書には「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り…(マタイ23:25)」とありますが、驚くべきことに、ユダヤ人たちはかなり積極的に海外宣教をしていました。そしてユダヤ人以外の異邦人がユダヤ教に改宗する際には、洗礼と割礼を授けることにより、ユダヤ人と同様だと認めていたのです(女性は洗礼のみ)。バプテスマのヨハネはその洗礼を、ユダヤ人たちにも適用しました。ユダヤ人は選民意識を持っていましたが、そのユダヤ人であっても「自分の罪を悔い改めてバプテスマを受けなければ、天の御国の一員とはなれない(マタイ3:1意訳)」と教えたのです。イエス様は更に一歩進めてこう教えられました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません(ヨハネ3:5)」。このイエス様の十字架と復活によって洗礼の意味は、ついに完成しました。
イエス様によって完成された洗礼の意味は次の通りです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです(ローマ6:4)」。つまり洗礼とは、完全に水に浸ることにより、キリストが十字架で死なれたように古い自分に死に(墓に葬られ)、水からザバーッと上がることにより、キリストが墓からよみがえられたように、新しいいのちに歩む者へと変えられること意味しています。それが「御霊によって生まれ変わる」ことです。洗礼により私たちは、心の中で起こった恵みの御業を、目に見える形に現し、からだ全体で確かめ、心に刻みつけるのです。また洗礼を受けることは、神の子とされ、神の国の民の一員となること、またこの地上では教会の一員になることも表しています。
でも一体どのタイミングで、洗礼を受けたらよいのでしょうか?ペテロはこう言います。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう(使徒2:38)」。その直前にはこうあります「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです(2:36)」。つまりイエス様の十字架が、自分の罪の赦しのためであったことが分かり、悔い改め、イエス様に方向転換をして新しいいのちに歩む決心した時が「その時」なのです。
水はただの水です。でも信仰を持ってくぐる時キリストの十字架の復活が我が身の現実となるのです。何度も受ける必要はありません。恵みを胸に、最後まで忠実であることが大切なのです。
そのとき、
そのとき、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた。
(マタイ3:17新共同訳)