教会には色々な働きがあります。私たちの教会(岐阜キリスト教会)を見ても、たくさんの働きがあります。たとえば、礼拝、愛餐会、聖歌隊、聖書研究会、日曜学校、ジュニアユース、男性の会、女性の会、オリーブの会、学生会、スモールグループ、ゴスペル、ママズカフェ、ノーバディーズパーフェクト など。その他にも、教会によっては、幼稚園や老人ホームを経営していたり、社会福祉に関するNPO法人を立ち上げている教会もあります。しかし、その中で、本当に教会にしかできない働きは何でしょうか?教会がまず力を注ぐべき働きは何でしょうか?イエス様は、このように教えられました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい(マタイ28:19-20)」。その他の働きがいけないのではありません、しかし「何のために」という目的を見失ってはいけないのです。
神様の究極の目的は、すべての人が救われることです(Ⅰテモテ2:4)。使徒の働きにも、施(ほどこ)しを求める男の話しが登場します。ペテロとヨハネが彼の前を通り過ぎるとき、彼は何かもらえると思って二人を見ました。しかしペテロは彼に言いました。「金銀は我にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい(3:6)」。今日でも、教会に慈善を求める人はたくさんいます。しかし物理的にも経済的にも、教会がすべての人の必要を満たすことはとても難しいです。また、それが本当に教会の使命なのかどうか、もう一度よく考えてみなければならないでしょう。教会の使命は物質を与えることではなく、福音(イエス・キリスト)を宣べ伝え、人々が新しい歩みを始めるのを助けることです。慈善も大切ですが、この目的を忘れてしまう時、教会は教会ではなくなってしまうのです。それは御心ではありません。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい(Ⅱテモテ4:2)。つまり、これが教会の第一の使命なのです。こういうと「わたしは伝道が苦手で…」と後ろめたい気持ちになる人もあるかもしれません。しかし、もう一度マタイ福音書を注意深く読むと、そこにはこうあります。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(28:19)」。注目すべきは「あなた」ではなく「あなたがた」とあることです。つまり伝道とは、あなた個人ではなく、あなたも含めた、信徒の群れである「教会」に与えられた使命なのです。キリストの体(肉体)は天に挙げられましたが、「キリストのからだである教会」は、この地にあって、みんなの賜物を活かしながら、御言葉を宣べ伝えているのです。もしあなたの賜物が掃除や愛餐会での奉仕なら、それに心を注ぐことにより、あなたは宣教に参加しているのです!また伝道とは、福音を口先で伝え、何人救われた、と数えるようなものではありません。その人が実際に洗礼を受け、御言葉と教会に根差した弟子となるまでしっかりかかわること、それが本当の伝道なのです。
また、正しい政治が行われるように祈ることも大切です。聖書にはこうあります。「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです(Ⅰテモテ2:1-2)」。政治の行方によって、私たちの生活、とりわけ信仰生活は大きく左右されます。日本ではそんなことないと思いますか?衆院選前ですが、特に信教の自由に関する「改憲」に関する公約をよく見ながら、投票することもクリスチャンとしての大切な責任です。
教会の大きな二つの使命、それは「福音を宣べ伝え」「為政者のために祈ること」です。極端になってはいけません。第一は福音を宣べ伝えること、しかし政治に関心を持つことも大切です。
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、
それはわたしの誇りにはなりません。
そうせずにはいられないことだからです。
福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
そうせずにはいられないことだからです。
福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
(Ⅰコリント9章16節 新共同訳)
そこで、まず初めに、このことを勧めます。
すべての人のために、
また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、
祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
神は、すべての人が救われて、
祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、
また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、
喜ばれることなのです。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、
喜ばれることなのです。
神は、すべての人が救われて、
真理を知るようになるのを望んでおられます。
(Ⅰテモテ2章1-4節)