2012年11月15日木曜日

その3 「恵みの岩の上に」 マタイ16章15-28節,コロサイ1章9-23節

前回は「ルターの紋章(Luther Rose)」から学びました。その紋章の中に、私たちプロテスタント教会が500年間、脈々と受け継いできた、大切な信仰の遺産が含まれていました。その中央に「黒い十字架」が描かれています。なぜ黒色なのか?それは、私たちの罪をすべて背負い、十字架にかかられた、イエス様の「死と痛み」を現すためです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。その一方的な恵みと犠牲によって、私たちは赦され、生かされているのです。それを現しているのが、十字架を取り巻く真っ赤なハートです。また、キリストの教会も、ただこの十字架の福音を信じる信仰の上に、建て上げられているのです。このことについて、更に詳しく学んでいきましょう。

ペテロは素晴らしい信仰告白をしました。マタイ16章16節にこうあります。「あなたは、生ける神の御子キリスト(メシア・救い主)です」。この「イエス・キリスト、神の御子、救い主」をギリシャ語で書いて、その頭文字(5文字)を合わせると、「イクソス」(ギリシャ語の魚・クリスチャンのシンボル)になることは、前々回説明した通りです。その信仰告白を聞き、イエス様も「わたしはこの岩(信仰告白)の上に、わたしの教会を建てます」と言われました。でも、話しはそれで終わっていません。そんなに素晴らしい信仰告白をしたペテロでしたが、その直後に「下がれ。サタン(16)」と叱責されてしまうのです。ペテロにしてみれば、ご自分の十字架の預言をされるイエス様に「そんなことが起こるはずがありません(22)」と善意から発言したつもりだったのですが、イエス様に人間的な同情は必要ありませんでした。しかも十字架への道を否定することは、イエス様がこの世にお生まれになられた目的そのものを、根本から否定(邪魔)することだったのです。このことからも、「岩」が、ペテロという人物のことではないことをお分かりいただけるでしょう。ペテロは、イエス様の復活後、大きく変えられますが、それでも、こんなに変わりやすく、不確かな、人間に過ぎません。そういった人の権威の上に「教会」が建て上げられたら大変なことです。 

「いわんや、私たちの信仰をや」(まして私たちの信仰については言うまでもない)です。ペテロどころではなく、私たちの信仰は、人にもよりますが、まるでジェットコースターのようにアップ&ダウンを繰り返します。洗礼を受けた時は、あんなにも喜びに満たされていたのに、数年経つと、あの喜びはどこへやら、なんてこともあります。またクリスチャンと話していると、意外にも「救いの確信がない」と答えられる方が多いことに驚きます。一つの原因は、自分の感情によってイエス様を知ろうとしているからではないでしょうか。何か恵まれる体験をしたり、教えられたりすると「今日は救われている気がする」けれど、数日後には「もう救われている気がしない」のです。そんな具合に私たちの気分はコロコロと変わります。その気分の上に、私たちの信仰を、ましてや教会を建て上げたら大変なことになってしまいます。建て上げても、激しい感情の起伏(地震)によって、建て上げたものはすぐに壊れ、それを永遠に繰り返さなければいけません。 

しっかりとした土台の上に固く立ちなさい。私たちの内に「確かさ」や「普遍性」はありません。それはただ「主」と「主のことば」に宿るのです。聖書にこうあります。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません(マタイ24:35)」。みことばを心に豊かたくわえ、この土台の上に信仰と教会を築き上げることが大切です。それは機械的に、みことばを覚えるという意味ではありません。(それも大切ですが、より大切なのは)その内容に踏みとどまることです。私たちの感情は、騒ぎます、ぶれます、時には信じてきたことが全部ウソだったような気分にとらわれることもあるかもしれません。しかしそれでも「イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださり、私たちを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるのです」この「一方的な恵み」に変わりはありません!信仰とは、私たちの感情ではなく、この恵みの上に踏みとどまることなのです(コロサイ1:18-22)。 

あなたの信仰は感情の波にもてあそばれてはいませんか?すべてが信じられなくなっても、神様の愛に変わりはありません。あなたが、この恵みの上に、踏みとどまることができますように。 



ただし、あなたがたは、
しっかりとした土台の上に堅く立って、
すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、
信仰に踏みとどまらなければなりません。
コロサイ1章23節





2012年11月8日木曜日

その2 「ルターの紋章 Luther Rose」 Ⅰコリント3章1-15節

前回は宗教改革記念日にちなみ、カトリック教会とプロテスタント教会の違いについて学びました。この二つの教会を分けるのは、ある御言葉に対する解釈の違いでした。マタイ16章18節にはこうあります「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」。ギリシャ語で「岩」のことをペテロといいます。ペトラはその女性形です。カトリック教会は、この「岩」を文字通り「使徒ペテロ」と理解します。そしてローマ教皇こそ、ペテロの唯一の後継者であり、自分たちの教会こそ唯一のカトリック(普遍的な)教会だと主張するのです。それに対してプロテスタント教会は、目に見える人ではなく、「あなたこそ生ける神の御子キリストです(16:16)」というペテロの「信仰告白」こそ、その「岩」であると信じています。「生ける神の御子が、私たちの罪のために十字架にかかられ、救い主となられた」この信仰こそ、すべての教会の土台なのです。 

ルターの紋章をご存知でしょうか?古いドイツの教会、特に旧東ドイツの教会に行くと、あるシンボルマークを見つけることがあります。金色の輪の中が青色で塗られていて、その中に白いバラが描かれている。その白いバラの中央には赤いハートが描かれていて、そのハートの中には真っ黒い十字架が描かれている。これを「ルターの紋章」といいます。ルターは自分の信仰と教会観を現すために、このような紋章(シンボルマーク)を考え出し、書物のタイトルページや、住まいなどにあしらえました。金色の輪は「永遠」を表しています。ある意味この世の中は闇に包まれています。「ハデスの門」とは「死の力」のことです。この死の力はすさまじく、私たち人間の力ではとうてい抑えることができません。この門は、今にも開いてしまいそうなのです。しかしキリストとキリストのからだである教会には、この門をふさぐ力があります。言ってみれば、教会は、この暗闇の力を封じ込める、霊的な砦(とりで)としてこの世に存在しているのです。だからルターは「紋章」を金色の輪で囲みました。たとえ現実の世界は、死の力に取り囲まれていても、キリストが打ち建てられた教会とそこに属する一人一人は、その暗闇の力に負けることがなく、圧倒的な勝利者として(ローマ8:37)、希望と喜びに満ち溢れ、この地に存在しているのです! 

でもなぜ、その中央には「黒い十字架」が描かれているのでしょうか?ふつう十字架は何色に塗られますか?赤色でしょうか?金色や銀色でしょうか?でもルターはあえて黒色に塗りました。それは、私たちの罪をすべて背負い、十字架にかかられた、イエス様の「死と痛み」を現すためです。その苦しみのゆえに、私たちには、いのちと平安が与えられました。十字架の周りには、赤いハートがありますが、これは十字架の愛によって癒された私たちの心です。救われる前は、生きる目的も分からず、我欲に従い、的外れな人生を歩んでいました。その時の私たちのハートは、罪に汚れ、鼻で息はしていても、死んでいるも同然の、黒いハートだったかもしれません。でもイエス様は、そんな私たちに近づき、手を引いて起こし、神と隣人を愛する新しい人生に入れてくださいました。自分から出たことではありません。ただ一方的な恵みと犠牲によって、私たちは癒されたのです。いま私たちのハートは、イエス様の愛が脈打つ、真っ赤なハートなのです。 

その真っ赤なハートは、真っ白いバラのじゅうたんに抱かれています。1530年に書かれたルターの手紙にはこうあります。「十字架は、自然の色をしたハートの中に黒で描かれる。そのハートは、霊と天使の色である白色の晴れやかなバラの上に置かれる」。イエス様が洗礼を受けられたとき、天が開けて、真っ青な空から白い鳩が下ってきました(ヨハネ1:32)。白い鳩は聖霊の象徴です。カトリック教会に追われ、逃亡の身となったルターは、本当に苦しい毎日を過ごしていたことでしょう。でも彼は、ある日のこと、カトリックの弁論家のエックとの討論の場に、一輪の白いバラを持って現れました。それは「御手の中にある平安と慰め」を意味していました。御霊の実は「愛、喜び、平安(ガラテヤ5:22)」です。この世にあって試練はなくなりません。でもどんな試練の中でも、心の王座にイエス様の十字架があるなら、キリストの平安が私たちを覆うのです。 

あなたのハートの中心に今日何があるでしょうか?教会の交わりの土台には、何が据えられているでしょうか?キリストの十字架が、私たちの人生に、確かな土台を与えてくれるのです。 



(キリストは)自分から十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、
あなたがたは、いやされたのです。
Ⅰペテロ2章24節