2013年2月27日水曜日

その12 「看取る(見送る)教会」 Ⅰテサロニケ4章 ヨハネ11章


前回は「家族としての教会」と題し、特に高齢者について学びました。「近年、高齢者虐待が深刻な社会問題となっています。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねる)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金の横取り)その他にも言葉による暴力などがあげられます。しかし聖書には、お年寄りについて、このように教えられています。『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)』。『年寄りを叱ってはいけません(Ⅰテモテ5:1)』」。こういったクリスチャンの高い倫理性はどこからきているのでしょう。それは、人が「神のかたちに造られている(創世記1:27)」という人間理解から来ています。またそれは、教会の葬儀においても、見られます。

今日のテーマは「看取る(見送る)教会」です。家族としての教会は、人生のあらゆる場面を共有します。出産のように喜びの時もあれば、お葬式のように悲しみの時もあります。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ローマ12:15)」とありますが、私たちはそれらすべてにおいて、このことを実践するのです。今回は、その中でも、葬儀について学びたいと思います。よく「ゆりかごから墓場まで」と言われますが、教会は「ゆりかごから天国まで」です。ですから、単に「看取る」のではなく「見送る」としておきました。キリスト教葬儀には大きく三つの意味があります。①遺体の葬り(最後まで故人への愛と敬意を表す)②遺族への慰めの気持ちを表す ③信仰からくる希望を表す。それら一つ一つについて見て行きましょう。 

まずは遺体の葬りです。先日、その名も「遺体 ~明日への十日間~」という映画を観て来ました。題名からして、観るのを躊躇したのですが、看取る機会の多い者として、観なければいけない気がして足を運びました。そして観ている最中、ずっと涙が止まりませんでした…。2011年3月11日に起きた東北大震災からの10日間を追った映画(実話)です。学校の体育館が遺体安置所となり、おびただしい数の遺体が運ばれて来る。狂気に陥りそうな混乱の中で、精一杯の思いを込めて、遺体を弔(とむら)う人々の姿が描かれていました。遺体を丁寧に扱うことは、故人の尊厳を最後まで守ること。それは、遺族と誠心誠意向き合うことにもつながる。そんな事を教えられました。クリスチャンは遺体を粗末にするし、葬儀にもこだわらない、と誤解をしている人がいますが、決してそんなことはありません。クリスチャンこそ「神のかたちに造られた人」を、最後まで、その尊厳と威厳を損なわないよう、丁寧に、心を込めて、葬りの式を行うのです。 

続いて遺族への慰めです。葬儀は伝道集会ではありません。遺族の感情を無視して、一方的に福音を語っても、悲しみにくれる遺族の心に届くでしょうか。そのような配慮のなさは、むしろ未信者にとって躓きとなります。イエス様はラザロの死に際して「涙を流され」ました(ヨハネ11:35)。大事なのは「泣く者と一緒に泣くこと」です。テクニックではありません。遺族の心に寄り添うことによって、哀悼の意を伝えるのです。同時にクリスチャンは「望みのない人々のように悲しみに沈まない」事も大切です(Ⅰテサロニケ4:13)。不自然に「ハレルヤ」と明るくする必要もありませんが、悲しみに沈み過ぎず、主にある復活の希望を証しすることも忘れてはいけません(4:18)。 

最後に信仰からくる希望の表明です。残された者が、果たすべき使命(大仕事)がここにあります。それは涙を流すことだけではなく、故人が残した信仰をしっかり神と人との前で証しすることです。単に思い出を語るだけではなく、故人が何に希望を置き、何に感動して生きて来たかを、故人に代わって証し続けるのです。そのことが悲しみに沈む遺族に対して「私のために悲しまないでください」という最良の慰めにもなるのです。だから、生きている時から自分の証しをまとめ、牧師に渡しておくことは大切です。聖書にもこうあります。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3:15)」。やがて訪れる死に対して、今から出来る備えがある。それこそが「証しの準備」なのです。 

あなたは自分の人生を通して伝えたいメッセージを持っていますか? またそのメッセージに、実際に生きていますか? 葬儀は、あなたがどのように生きて来たかの集大成なのです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。これは御国での再会の希望であるとともに、信仰に生きた人の希望が、残される者の心の中で生き続けことでもあります。 



イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネ11章25節


眠った人々のことについては、
兄弟たち、あなたがたに
知らないでいてもらいたくありません。
あなたがたが他の望みのない人々のように
悲しみに沈むことのないためです。
Ⅰテサロニケ4章13節







2013年2月21日木曜日

その11 「家族としての教会」 Ⅰテモテ5章1節

前回は「祈る群れ」と題してこう学びました。「一人で祈ることも大切です。イエス様はいつも寂しいところで祈っておられました。でもイエス様はこうとも教えられました『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)』。集まって祈る時、その力は、かけ算的に増すのです!」。このように私たちの信仰は、個人主義ではなく、共同体を大切にしています。そして共同体の最もよく表す表現が「家族」です。今日はこの「家族としての教会」について一緒に学びましょう。

近年「高齢者虐待」が隠れた大問題となっています。こどもへの虐待ほどニュースになりませんが、その潜在的な件数はかなりになると見られます。大きくは、家庭内と施設内で起こるケースとに分けられます。内容としては、身体的虐待(殴る、蹴る、つねるなど)、ネグレクト(介護や世話の放棄)、経済的虐待(年金・預貯金・財産を不正に横取りする)その他にも言葉による暴力などがあげられます。聖書には、たとえ誰も見ていなくて、本人さえ気づかなくても、盲人や難聴者に対して不条理な扱いをすることを厳しく戒めています。「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である(レビ19:14)」。同様に、弱くなっても、認知症が進んでも、老人に対して、神を恐れ、キリストに対するように接しなければいけないと聖書には教えられています。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である(レビ19:32)」。これは、現代の日本においても大切なおしえではないでしょうか。 

パウロは牧会書簡の中で、若い伝道者テモテに「年寄りを叱ってはいけません。むしろ父親に対するように勧めなさい(Ⅰテモテ5:1)」と教えています。このことについて加藤常昭師はこう教えています。「私ども人間が年をとると、ますます円満になり、問題の少ない人間になるかというと、そうはいきません。若い時は若い時なりに問題があり、壮年期には壮年期の問題があり、年老いれば、それなりの悩みと苦しみが出てまいります。肉体の力が衰えるだけではなく、心の力も衰え、つまらない間違いをするようになります。自分で自分の心をコントロールすることができなくなり、かえって裸の欲望に振り回されて生きてしまうようなことが起こります。『またそんな事をやっちゃって!』と叱られるようなことをしてしまうことを、聖書は否定していません。でもその時は『叱ってはいけない』『父親に対するように勧めなさい』と教えられているのです。『勧める』とは『丁寧な言葉で気づかせる』ことです。若くても年老いても罪は犯します。やはり教会ですから、罪をうやむやにはせず、気づかせることは大切です。でもこの『勧める』というギリシャ語には『慰める』という意味も含まれています。老人が罪を犯す時、一番うろたえているのは老人本人です。ですから叱りつけるのではなく、『慰め、丁寧に諭すこと』が牧師の務めなのです(本文要約)」。教会が、愛と尊敬とを持って、お年寄りに接することが大切なのです。

でもお年寄りには「一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とも勧めたいと思います。教会は、お年寄りだけの居場所ではありませんし、若者だけが、お年寄りに気を使わなければいけないわけではありません。聖書には「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい(ルカ22:26)」とあります。直接には、人の上に立つ人々のことですが、家父長制度や年功序列といった傾向の強いユダヤの社会では、年長者に対する教えとそて理解しても良いでしょう。どうですか、あなたは見慣れない若者たちが、我がもの顔で教会を闊歩(かっぽ)し、なじみのないメロディーで賛美していても、それを喜ぶことができますか?小さな赤ちゃんが、慣れ親しんだ静かな礼拝で声を出してしまうとき、(もちろん限度はありますが)その幼い魂を心から受け入れることができますか?聖書には「だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです(マタイ18:5)」と教えられています。

大切なのは、それぞれの世代が、自分の権利を主張することではありません。むしろ互いに、認め合い、配慮し合い、仕え合う姿勢が「家族としての教会」には必要なのです。若者たちは、今まで教会を支えてこられた先輩方を尊敬し、大切にすべきです。同時にお年寄りたちは、これからの教会を担って行く若者たちを励まし、受け入れるべきです。私たちは愛において一つです。



あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、
またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
レビ19章32節

年寄りをしかってはいけません。
むしろ、父親に対するように勧めなさい。
Ⅰテモテ5章1節

あなたがたの間で一番偉い人は
一番年の若い者のようになりなさい。
ルカ22章26節




2013年2月14日木曜日

その10「祈る群れ」 使徒の働き12章

前回は「賛美する群れ」と題して、このように学びました。「賛美は『霊的な戦い』でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと武装した兵隊の前に、聖歌隊を配置しました。そして聖歌隊が高らかに賛美しはじめた瞬間、主は不思議な方法で、勝利を与えて下さったのです!今でも、多くの教会ではメッセージの直前に聖歌隊が歌います。それは賛美がささげられる時、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです」。そもそも賛美は、メロディーのついた祈りでもあります。賛美と祈りは切っても切り離せません。今日は「祈り」について学びたいと思います。 

「教会ってどんなところ」と聞かれれば「祈りの家です」と答えることができます。イエス様は宮(礼拝のささげられる場所)のことを「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」(マタイ21:13)とおっしゃられました。でもどうでしょう。私たちの教会は「祈りの家」となっているでしょうか?ここ数年私たちの教会の、聖研祈祷会出席者は減っています。これは私たちの教会に限ったことではなく、日本中、いや世界中の先進国にある教会に共通する傾向でもあります。生活スタイルが変わり、週の半ばに、教会に来にくくなった、という事情もあるのでしょう。でもそうなら、私たちは「集まって祈る機会」をどこかで補っているでしょうか?一人で祈ることも大切です。イエス様はいつも寂しいところで祈っておられました(マルコ1:35)。でも聖書には「集まって祈ることの大切さ」も強調されています。あのペンテコステの直前にも、弟子たちは一つところに集まって祈っていました(使徒1:14,2:1)。またイエス様もこう教えています。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです(マタイ18:19-20)。集まって祈る時、その力は「かけ算的」に増すのです! 

初代教会は、とにかく集まってよく祈りました。福音がすさまじい勢いで広がるなか、何とかそれを留めようとする勢いも増しました。ヘロデ王は、弟子の中でも中心的な役割を果たすヤコブに目をつけ、彼を剣で殺しました(使徒12章)。これは当時、殺人犯と背教者だけに下される屈辱的な刑でした。でも、その刑を、ユダヤ人たちは喜んだのです。そこでヘロデ王は、もっと民に気に入られようと、次は、事実上の教会の最高指導者ペテロをとらえて、殺害しようと考えたのです。もはや絶体絶命です。その時教会は何をしたでしょうか。なんと祈り始めたのです!聖書にはこうあります。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた(5)」。この「熱心に」とは、ギリシャ語で「エクテノース」といい、他にも「熱く燃え上がる、熱烈に、終わることなく」などの意味があります。それほど教会は熱心に祈り続けたのです。その結果何が起きたでしょう。ペテロは二本の鎖につながれて、兵士の間に寝かされ、戸口には番兵が監視していたのに、御使いの「急いで立ち上がりなさい」との呼び掛けにこたえて立ち上がると、鎖は解け落ち、その後もまるで幻の中を歩いて行くかのようにして、牢の外に救いだされたのです。その瞬間、御使いたちは見えなくなりました。ペテロは我に返り、まっさきに皆が祈っている場所に急ぎました。 

賛美が霊的戦いの「最前線」なら、祈りは「最強の後方支援」です。ペテロが祈り会の場所に到達し、戸を激しくたたくと、ロダという女中が応対しました。そしてペテロの声だと分かると、戸をあけもせず、奥に入って行き、他の弟子たちに「ペテロが戸の外に立っている」と伝えました。その時の反応は意外なものでした。ある者は「あなたは気が狂っているのだ」と言い、ある者は「それは彼の御使いだ」と言ったのです。一体彼らは何を信じていたのでしょう?ここから二つのことを教えられます。一つは、信じて祈ることの大切さです。ペテロが救われたから、ほほえましいエピソードですが、やはり彼らの不信仰は反面教師です。イエス様はこう教えられました。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます(マタイ21:22)」。もう一つ教えられるのは、矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、不完全な祈りさえも聞いてくださるイエス様の憐みです。私たちは、この憐れみがあるから、失望せず、なおも大胆に祈り続けることができるのです。奇跡を行う力は、私たちの祈りそのものではなく、主ご自身の内にあるのです。 

教会で、集まって、祈ることを大切に。世間話なら他でもできます。でも互いに祈り合うことは、クリスチャン同士にしかできません。どんな小さな祈りの輪にも主がともにいて下さいます。 



もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、 
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。
(マタイ18章19節)

だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。
(マルコ11:24




2013年2月7日木曜日

その9「賛美する群れ」 Ⅰコリント14:15 Ⅱ歴代誌20:21

前回は「互いに」と題して、「互いに赦し合うこと」と「互いに教え、戒め合うこと」を学びました。聖書にはこうあります。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロサイ3:16)」。興味深いことに、互いに教え、戒め合うことと、賛美がセットで記されています。教え戒めることは、必ず賛美とセットで行わなければいけない、と言われているようでもあります。互いに戒め合いながら、ともに賛美することにより、私たちの心は主に向けられ、愛し赦し合うものとされるのです。今日は、この賛美について学びましょう。

「詩と賛美と霊の歌とにより」とありますが、これはどういう意味でしょうか?まず「詩」とは旧約聖書の「詩篇」のことです。旧約の時代から、琴などに合わせて歌われていました。また「賛美」とは、詩篇以外の賛美のことです。分かりやすく言えば、時代の中で生まれてきた「讃美歌」です。最後に「霊の歌」とは、礼拝などにおいて神様に導かれて「即興で歌われた賛美」のことです。この「霊の歌」について、コリントの教会では混乱がありました。当時のコリント教会で特に強調されていた聖霊の賜物は「異言」でしたが、これは神様に心を向ける中で、自然に口からあふれてくる霊的な言葉です。それによって祈る人々は、神様と格別に深い交わりを実感し、恵まれるのですが、一つ残念なのは、聞いている人々に、その意味が分からなかったことです。また当時の礼拝では、この異言にメロディーをつけて、突然立ち上がり、即興で歌い出す人々がたくさんいたました。本人は恵まれるのですが、周りの人々はどうだったでしょうか?パウロは、この状況に対して、次のようにアドバイスしています。「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう(Ⅰコリント14:15)」。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい(40)」。 

「知性において賛美する」とはどういうことでしょう。それは、聞いている人々にも、分かる言葉で賛美をするという意味です。そうすることにより、歌っている人が、いったい何に感動して、場合によっては涙を流して歌っているかが分かるようになるのです。クリスチャンでない人が同席する場合はなおさらです。現代の教会でも、求道者がいるのに、クリスチャン用語を並べて賛美するなら、聞く人々には「異言」のようでしょうか。「リカイ(理解)」の反対は「イカリ(怒り)」。そのような集会に「また来たい」と思うでしょうか。でも配慮をして、初めての人にも分かりやすい言葉で賛美をするなら、賛美は、素晴らしいメッセージとなり、証しとなるのです。実際に、私たちの教会でも「プレイズタイムの賛美が印象に残ったからこの教会に決めた」と言われることがしばしばあります。賛美は、メロディーに乗せて、神様のメッセージを心に届ける、最良の方法なのです。このように、賛美は、神様をほめたたえるタテ方向の歌ですが、聞く人々への証しという意味ではヨコ方向の歌でもあります。この両方向を大切にささげられる賛美は、人々の徳を高め、心からの「アーメン(その通りですという同意)」を生みだすのです(Ⅰコリント14:13-17)。 

また賛美は「霊的な戦い」でもあります。ヨシャパテ王は、戦いの際、なんと兵隊の前に、聖歌隊を配置しました(Ⅱ歴代誌 20:21)。その聖歌隊が「主に感謝せよ、その恵みはとこしえまで!」と賛美しはじめたその時、主は不思議な方法で、敵を打ち負かして下さいました。私たちの目の前にも、問題や敵が立ちふさがることがあります。自分の力や策略では、どうにも前に進めないと思うことがあるかもしれません。その時、私たちに何ができるのでしょうか?その時こそ、賛美なのです!イエス様は十字架にかかられる前夜、賛美を歌ってからオリーブ山に向かい、ゲッセマネで霊的に勝利されました(マタイ26:30)。またパウロとシラスは、真夜中の獄中で賛美を捧げ、圧倒的な奇跡を体験しました(使徒16:25)。今でも多くの教会で、メッセージの直前に聖歌隊が歌うのも同じです。賛美がささげられるところ、サタンは逃げ去り、聖霊が豊かに働くからです。 

クリスチャンの特徴はとにかくよく歌うことです。礼拝においてはもちろん、葬儀においてもです。なぜなら賛美こそ、私たちの力だからです。また賛美は、私たちの信仰告白であり、祈りでもあります。ところで葬儀に歌ってもらう愛唱歌を決めていますか?それは、あなたが今まで何を信じ、何に感動し、何に人生を捧げて来たのかを証しする、人生の集大成となるのです。 



ですから、私たちは
キリストを通して、賛美のいけにえ、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、 
神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル13章15節)




2013年1月31日木曜日

その8「互いに建て上げられる」 コロサイ3章12-17節

前々回は「牧師の働き」そして前回はアクラとプリスキラの姿を通して「信徒の働き」について学びしました。そして私たちは、次のような結論に導かれました。「牧師と信徒との関係は、決して上下関係でも、従属関係でもありません。どちらかが倒れる時には、どちらかが支え、ともに手を取り合って福音を宣べ伝える『主にある同労者』なのです」。今回は、視点をもう少し変えて「兄弟姉妹」の関係について教えられたいと思います。主にある交わりの姿とは、どんな姿なのでしょうか?

まず最初に私たちは「赦し合う」べきです。聖書にはこうあります。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい(コロ3:13)」。特に「主があなたがたを赦してくださったように」とあることに注目したいと思います。私たちに赦す力なんてありません。「怒り」は「ねたみ」にも似ていて、相手のことを考えると、余計に相手に対する負の感情に支配されてしまうのです。私たち人間は、そのようにとても弱い存在です。でもイエス様は、そんな私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。そして一方的な愛と恵みのゆえに、私たちの罪を赦してくださったのです。決して「王に大きな負債を許されたのに、友人の小さな借金を許せなかったしもべ」のようになってはいけません(マタイ18:21-35)。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」との主の祈りを、実際に生きることが大切なのです。

でも「赦し合う」だけでは足りません。「互いに教え、互いに戒める」ことも大切です。聖書にはこうあります。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロ3:16)」。愛だけが強調されると、不正や罪でも赦し合ってしまう「なれあい」が生まれます。それは本当の愛ではありません。クリスチャンの交わりが、いつでも聖く、塩味の効いたものであるためには「互いに教え、戒める」という自浄(じじょう)作用が必要不可欠です。しかし、それは気づいたことを、何でも厳しく言えばよいというものではありません。まず大切なのは「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ることです。そして、もう一つは「神に愛されている者として、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け(コロ3:12)」ることです。御言葉に整えられず、自分勝手な感情で人を戒める時、「盲人が盲人の手引きをする」ように、二人とも穴に落ちて、大けがをしてしまうでしょう(マタイ15:14)。また、どんなに良いことを言っても、どんなに正しくても、愛がなければ何の役にも立たないのです。 

このように聖書においては「互いに」という姿勢が大切にされています。牧師をはじめとする教役者に「やってもらう」のが教会ではない。自分たちで「互いに、互いを、牧会する」姿勢こそ、本来の教会の姿なのです。これを「相互牧会」といいます。昔の話しになりますが、2009年に開催された第二回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が優勝した際、イチローがこんなことを話していました。「チームにはリーダーが必要だという、安易な発想があるが。一人一人がモチベーションと自覚をもって戦えば、そんなものはいらないということを今回のチームが証明してくれた」。教会においても、イチロー風に言えば、一人一人のモチベーションの高さが必要なのです。信徒だから責任がないのではなく、信徒も牧師も「同労者」として立ち上がる時、初めて「あらゆる国の人々を弟子とする(マタイ28:19)」という大宣教命令が実現可能となるのです。 

では、いっそのこと牧師はいらないのでしょうか?いいえ、その逆です。相互牧会が浸透すればするほど、牧師は本来の職務に集中できるようになります。それは「祈りとみことば」であり(使徒6:4)、「信徒を整えて奉仕に向かわせる」信徒教育の働きです(エペソ4:12)。このように、牧師は群れ全体に気を配り、細かいところは、信徒同志が互いに声を掛け合い、助け合う。そうして、ひとりも漏れることなく天の御国にたどり着けたら、それこそ最高ではないでしょうか。

無関心と自己中心の世の中にあって、教会こそがホッとする心のオアシスでありますように。私たちは全く違う者でありながら、キリストの十字架によって結び合わされた兄弟姉妹です。また同時に、少しずつ「兄弟姉妹にされていく」者でもあります。いきなり兄弟姉妹に完璧を求めるのではなく、焦らずゆっくり、愛の内に建て上げられていきましょう。


また、互いに勧め合って、
愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、
いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、
かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。
(ヘブル10章24-25節)




2013年1月24日木曜日

その7「同労者」 使徒18章

前回は「牧師の働き」について学びました。私たちの、健全な教会生活と信仰の成長のためには、正しい牧師理解が必要不可欠です。牧師の働きにおいて特に大切なのは「みことばの説き明かし」です。そのことについてこう学びました。「ところで私たちは主日ごとの『みことばの説き明かし』をどのように聞いているでしょうか?『○○先生のお話し』という具合に『単なる先生の言葉』とか『個人的な見解』として聞いていないでしょうか?また『今日はおもしろかった』『今日の先生の服は?』と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は『人の言葉』ではなく『神の言葉』として聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません」。その他にも、聖徒たちを整えて奉仕(ミニストリー)に用いる働きについても学びました。今日は「信徒の働き」についてです。

牧師と信徒のあるべき関係とは何でしょうか?以前「万人祭司」について、こう学びました。「カトリック教会では、教皇がトップで、その下に司教や司祭がおかれ、信者は彼らの存在を通してでなければ正式には『罪の赦し』を受けられません。しかしプロテスタント教会では、誰でも、信仰によって、大胆に神様の前に出ることができ、罪の赦しを受けることができると教えています」。ただし「万人祭司」は「万人牧師」ではなく、「働きの違い」や「教会の秩序」は大切にしなければいけません。聖書には「みことばを解き明かす長老(監督)を尊敬するように」と教えられています。それは尊敬がなければ、解き明かされるみことばを「神の言葉」として聞くことができないからです(Ⅰテモテ5:17)。でも上下関係ではありません。昔、牧師に対して「平信徒」という表現が使われました。でもその理解は間違っています。牧師と信徒はあくまで同労者です。 

パウロの働きを助けた、アクラとプリスキラという夫婦がいました(使徒18章)。細かい理由はさておき、彼らは他のユダヤ人とともにローマを追放され、コリントに移り住んでいました。そこでパウロと出会います。回心については書かれていないので、おそらくローマで福音を聞き(もしくはエルサレムのペンテコステを体験し)クリスチャンになっていたのでしょう。彼らは天幕職人という「同業者」だったので、一緒に住んで働き始めました。それと同時に彼らはパウロの伝道を支える「同労者」となったのです。ここに本当に麗しい教役者と信徒との関係を見ます。それは「同労者」すなわち同じ目的を持ちながら、互いに支え合う、パートナーとしての姿です。 

彼らは信仰理解においても、教役者に引けを取りませんでした。先ほど話した「平信徒」は英語で「laymanレイマン」と言いますが「専門家ではない素人」という意味もあります。でもプリスキラとアクラは決して素人などではありませんでした。彼らは「雄弁なアポロが、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった(25)」ことに気付きました。すなわち聖霊理解が不十分であったのです。その時、彼らはどうしたでしょうか。「プリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した(26)」。私はここに感動します。公衆の面前でアポロを非難することなく、陰口を言って駆けだしの献身者をつぶしてしまうことなく、家に招いてそっと諭(さと)したのです。彼らは博学なアポロを納得させるに十分な知識と説得力を持っていました。しかしそれだけでなく、彼らは、教会と働き人への溢れる愛があったのです。(聞き入れたアポロも立派でした)。このように彼らは地道にパウロの働きを支え、彼がいなくなった後も、教会で重要な役割を果たし続けました。今も昔も、教会はこのように、献身的な信徒たちによって支えられているのです。 

後にパウロは手紙でこう書いています。「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです」(ロマ16:3-4)。彼らは最後まで、命がけで、パウロの宣教を支えました。更にこうともあります。「アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています」(Ⅰコリ16:19)。彼らはパウロを支えるだけでなく、自分たちの家を開放し「家の教会」のリーダーとなり、積極的に福音を宣べ伝えました。 

牧師と信徒との関係は、決して上下関係でも、従属関係でもありません。どちらかが倒れる時には、どちらかが支え、ともに手を取り合って福音を宣べ伝える「主にある同労者」なのです。 



「キリスト・イエスにあって
 私の同労者である
 プリスカとアクラによろしく伝えてください。
 この人たちは、
 自分のいのちの危険を冒して
 私のいのちを守ってくれたのです」
(ローマ16:3-4a)




2013年1月18日金曜日

その6「牧師の働き」 エペソ2章、4章

以前、このシリーズの第一回目に「この岩の上に」と題して、次のように語りました。「イエス・キリストこう話されました。『あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(マタイ16:18)』。でも、この『岩』とはいったい何のことでしょうか?それはその直前に記されているペテロの信仰告白のことです。彼は言いました『あなたこそ生ける神の御子キリスト(救い主)です(16:16)』。この『信仰』こそ、教会の土台なのです」。そこで今日は、この土台の上に、一体どのように教会を建て上げて行ったらよいのか、特に「牧師の働き」に注目して学びたいと思います。もちろん「信徒の働き」も学びます。それはまた次回のおたのしみ。

パウロは度々教会のことを建物に例えています。きっと彼が伝道者でありながら、天幕職人(皮や木で移動式住居を作る人)でもあったことから、それが身近なたとえだったのでしょう。その際彼はいつも土台がイエス・キリストであることを強調しています(Ⅰコリント3:11)。もう少し具体的に言えば、その土台とは、イエス様の語られた福音であり、イエス様の生きざま(人格と御業)であり、十字架と復活による罪の赦し(新生)の恵みのことです。このイエス・キリストと、彼を信じる信仰の上に、教会は建て上げられているのです。しかしエペソ2章20節にはこうともあります。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」。つまりイエス様が究極の土台(一番深いところにある礎石)であるとしながらも、「使徒と預言者」という土台の上に、教会が建て上げられているというのです。 

「使徒と預言者」とは何のことでしょう。私はなんとなく「使徒が新約聖書」で「預言者が旧約聖書」と思っていました。難しい説明は抜きにして、新約聖書とは「使徒的文章」であり、イエス様ご自身が旧約聖書のことを「預言者」と言われたことがあったからです(例 マタ22:40)。でも同じエペソ人への手紙の中にはしっかりと「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです(4:11)」と記(しる)されています。つまり「使徒と預言者」は、その時代の教会の中で、実際に、イエス様が救い主であることを宣べ伝え、救われた人がどのように生きて行けばよいのかを教えていた人たちのことだったのです。また教えられる人々は、彼らの語る言葉を「神の言葉」として受け入れ、その土台の上に教会を建て上げました。パウロ自身がこう書いています。「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです(Ⅰテサロニケ2:13 新共同訳)」。 

ところで私たちは「みことばの説き明かし」をどのように聞いているでしょうか?「○○先生のお話し」という具合に「人の言葉」として聞いていないでしょうか?「今日はおもしろかった」「今日の先生の服装は?」と、色々なことに気を取られて聞いていないでしょうか?確かに牧師は人間です。神ではありません。しかし説教は「人の言葉」ではなく「神の言葉」として、聞かないと、教会のためにもならないし、自分の信仰の成長のためにもなりません。牧師は牧師で「尊い神の言葉を取り次いでいる」という恐れをもって、よく準備し、祈り備えて、語らなければいけません。そうした土台がしっかりしている教会は「組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮とされるのです(エペソ2:21-22)」。また「わたしたちは絶えず神に感謝しています」とある通り、解き明かしの栄光はすべて主のものです。説教者を過度に崇めるのは偶像礼拝です。 

それだけでも足りません。みことばを語ることしか強調しない牧師もありますが、牧師のもう一つの大切な働きは「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせること」です(4:12)。「させる」というと偉そうですが、御言葉によって聖徒を整え、賜物を見つけて、ふさわしい奉仕やミニストリーに用いることです。いってみれば、教会というチームの監督になり、個々を訓練し、教会全体を組織するのです。その際、監督は誰よりも謙遜でなければいけません(マコ10:43)。最近問題の体罰やパワハラなんてもってのほか。率先して、群れの模範となるべきです(Ⅰペテロ5:3)。 

牧師の大きな二つの働きは、「みことばを解き明かし」「聖徒を整えて用いること」です。あなたは牧師に期待すべきことを期待していますか?正しい期待が、お互いを大きく成長させます。



あなたがたは、
その割り当てられている人たちを支配するのではなく、
むしろ群れの模範となりなさい。
(Ⅰペテロ5章3節)